三枝壽勝の北京通信


三枝壽勝の北京通信 2005. 3月 (2005/03/11)

 旧正月の春節は十五日目の元宵節でいったん終わりになる。この日は 元宵とか団圓とよばれる 月見団子ぐらいの餡の入った食べ物を食べるのが習慣となっている。初一日に餅 (年) を食べたときの即席スープが残っているので、それを使ってまね事をすることにした。スーパーの入り口では 真っ白い団子を特別販売している。種類がやたら多い。それぞれ中に入っている餡が違う。十何種類かある。中にはチョコレートなどというのもある。どれがどれだかわからないので全部買うことにした。それぞれ二三個づつ混ぜて全部で一斤、10元払った。ところで辞書によれば 元宵と団圓とは別物で、大きさもすこし違うとある。新聞でも左手で元宵、右手で団圓を食べるなどと書いてある。しかし見たところ、どこに違いがあるのかよくわからない。いったいこの両者はどこが違うのだろう。近くの理髪店にいったとき 店員に聞いて見た。そりゃ全く別物に決まっているさ、と言った口ぶり (だったよう) だ。団圓は中秋節の時に食べるもの、元宵は元宵節に食べるものだと言う。しかし新聞では元宵節に両方とも食べるとあったから 団圓も食べるに違いない。買って来たのがどちらか分からないが、違いがあろうとなかろうと食べるには変わりない。まずは食べることにした。色々違ったものを混ぜたにしては どれも甘ったるくて似たようなものだった。あまりにも甘すぎて 食べているうちに気分が悪くなってきた。結局、大部分は食べずに捨ててしまった。そういえば 新聞でも、もち米で作ったものなのであまり食べ過ぎると体に良くないとか書いてあったっけ。さほど食べがいのあるものとも感じなかった。

 元宵節には 家の前に謎々を書いた灯篭をぶらさげ、通る人に解かせるという伝統的な行事があったらしい。この日の灯篭祭りは 台北で見たことがある。中正公園の周辺一面に 大小さまざまの灯篭が飾られていた。例の花火を打ち出し その中心に突進して行く行事もこの日のものだった。北京の中心街でも灯篭を飾っていたらしいが 謎が書いてあったかどうか分からない。テレビでは春節の最後ということで 謎謎をテーマにした晩会が放送されていた。交代に何人かずつ登場して謎を出しあい、その出来具合を比べあうといったものだ。中国では 何か行事があるたびに謎々をつかって時を過すことが多いらしい。書店でも謎々の参考書がかなり多い。過去の記録にある謎々を集めた 分厚い本もある。そういえば紅楼夢でも やはり春節に謎かけをして遊ぶ場面があった。

 この日は 元旦の春節晩会で人気のあった出し物に対する表彰も行われた。前回紹介した千手観音は一番人気だったらしい。テレビや新聞にインタビューや紹介記事が載り、特集番組も放映された。テレビのインタビューで 出演者が手話で応答しているのを見て 彼らが聾唖者だったことにやっと気づいた。不注意にも春節晩会のときは見逃していたのだが、この演技では最後に両腕のないダンサーも登場していたらしい。彼ら全員が身体障害者の芸術団の一員だったのだ。となるとあの見事なダンスが ますますただものでないことが感じられる。二十人近くのダンサーが見せてくれた一糸乱れぬ演技は たとえ聾唖者でなくとも容易いものではないはずだ。この芸術団はこんど北京で開かれる 2008年のパラリンピックでも演技を披露するとか紹介されていた。

 元宵節が終わると 新しい年が始まる。小学校もこの前後から授業が始まっている。しかし元宵節をすぎた二月 25、6日でも まだ帰省から戻る列車のラッシュが話題になっているところを見ると、二週間以上の休みをとっている人もかなりいるようだ。古本のサイトを見ても 春節が始まってから二週間以上も仕事をしていない業者がいる。彼等が仕事に戻ってくるまでにはさらに時間がかかるらしい。といってもここの古本業者は専業でない人も多いらしく、もともとあまり仕事熱心でない人もかなりいるらしい。近くにいる業者に聞いたところ 彼らの大部分は本が好きな知識人なのだそうだ。外国人では日本人の利用者が圧倒的に多いと言っていた。日本の中国関係の研究者の中には 中国の古書の業者に金を預けて資料購入を依頼する人がいるらしい。

 香港の商務印書館に注文した CD 版の漢語大詞典がやっと届いた。受け取るまでが大変だった。とにかく 税関での審査に時間がかかりすぎる。あまり時間がかかるので 広州の代理店に問い合わせを出した。すると即座に返事が来て、DHL で北京に送ったと言って来た。なんだ、こんなに簡単に送れるのじゃないかと思っていたが いっこうに配達が来ない。そのうち電話がかかってきた。香港から何か買ったのかと聞いてきた。応答していると どうやら相手は税関らしいが、もしかすると DHL の会社だったのかもしれない。やはり手続きに時間がかかるらしい。本人が直接来るのなら簡単に解決する、と言ったような気もする。口頭で住所を告げてきた。そこへ来いということなのだろうか。とにかくよくわからない。電話を切ってから聞き取った住所を探したが、どうも正確に聞き取れていなかったらしい。いろいろ聞き取った発音をデフォルメした結果、相手の言った住所はどうやら空港の傍にあるらしいことがわかった。あとはそこまで行ってそれらしい事務所か役所を探せばよいのだと覚悟を決めた。ところが夕方また電話がかかってきて、明日荷物を配達するという。翌朝早々 ケース入りの薄っぺらな CD が一枚配達されてきた。あっけない結末だった。なんでこんなものを手に入れるのに こんなに大げさな騒動が必要なのだろうか。私の場合は何度も連絡をし催促したので一月かからなかったが、ほっておけばその程度の時間がかかったのだろうと思う。

 この辞書の 1.0 版は以前に使ったことがある。中国語版 Windows 95 用だったが 98でも動いた。一部に間違いがあったり、途中でエンコして動かなくなることがあったが、中身がものすごく良かったので気に入っていた。しかし XP では使えない。これは現在でも中国で売っていることになっているので、はたしてこれが以前のままで同じ物なのか、2000 や XP でも作動するのか知りたかったが、ついに確かめられなかった。周辺で聞いたが知っている人がいないし、インターネットで検索すると CD 版の漢語大詞典はどこで手に入るのかという質問が見つかる程度だったから おそらくあまり期待できないと見た。香港で発売されているのは 2.0 版である。これは繁体字版 Windows の上で作動するものである。覚悟はしていたが、やはり使うまでが大変だった。最初は、システム言語を繁体字中国語にすれば簡単に解決すると思っていたがうまく行かない。インストールが出来ないのである。どうやらファイルが完全に読めないらしい。そこで言語はもとのまま (私の場合は簡体字中国語だが、日本語でも同じ) にもどした。表示される文字が文字化けで読めないが 無視してそのままインストールを実行すれば簡単に完了した。そのままでは繁体字入力による繁体字専用の辞書が動かないので、ここでシステム言語を繁体字中国語に変換すればよい。この際、再起動が必要になる。あとで面倒なことにならぬよう インストール完了のあと、私はあらかじめ画面上にショートカットを作成しておいた。あとは繁体字入力の仕方さえ知っていれば辞書が使える。辞書が使えれば この辞書がとてつもなくすばらしいものであることがわかる。しかし、ここまでの手続きが誰にでも簡単にできるとは思えない。この宝物はかなり限定された人しか使えないのは残念なことである。使えたとしてもシステム言語を変更している限り、それ以外のソフトの使用が制限されるので、いっそのこと繁体字中国語版 Windows のパソコンを買って辞書専用にするのが一番良いかもしれない。それだけの投資をするだけの価値のある辞書だと思う。この辞書については すでに使用している人の体験談が日本のサイトにあると聞いたが 私はまだ見ていない。そういえば韓国で以前 Wuri-mal Kuen Sajoen の CD 版辞書が出ていて 逆引きなどかなり便利だったが、現在は元版の辞書も含めて絶版である。その後こうした辞書が発売されているのだろうか。辞書といえば 韓国で中期語の新しい辞書にはどんなものがあるのだろうか。私の手元にあるのは 1964 年版の劉昌惇氏の 『李朝語辞典』 だが、何十年たってもいまだに使えるのが 基本的には同じ辞書だと言うのは信じられない。根本的に新しいものが必要だと感じている。いつか 『十七世紀語辞典』 だとかいう辞書が出た時はどうだろうかと思っていたが、著者があれは学生達が入力したものですよと言ったので買うのをやめたことがある。

 春節のあたりから調子が狂ってきて ほとんど何も手につかなくなった。外出もほとんどせず部屋に閉じこもっていた。一度 買い物に近くのスーパーに入ったほんのちょっとの間に 自転車が盗まれてしまった。二度目だ。おそらくこの時も自転車を置くところを見られていて、あっという間に持って行ったらしい。これで外出がおっくうになった。外出は食糧の買い出しに市場に行くだけだが、こんどは部屋に泥棒が入りはせぬかと気になりだした。盗られるものといっても大部分は本で あとは二台のパソコンだが、盗ろうと思えばいくらも時間はかからない。数秒で済むことだ。あとテレビや冷蔵庫などがあるが これは家主のものだから私には関係ない、とはいえ責任問題が起きたらやっかいかもしれない。韓国のようにアパートの入り口に管理人がいるわけでもないので 鍵一つ用意すればいつでも侵入できるというのが一人者にとっては不安だ。そろそろ引き揚げ時である。

 前回、将来の科学などに関する本の紹介をした。その中にクローンに関する話題もあった。最近、中国が 国連での人間に対するクローンに関する宣言に反対したという記事が出た (『新京報』 2月21日)。なるほど中国は率直である。中国政府もクローンによる複製人間の製造には反対している。ただし治療性のクローンは必要であり 人権には反していないというのが中国側の主張である。新聞によれば どうやら受精後の胚に人権があるかないかという論争があるらしい。国際的には受精後 14 日までのクローンなら治療性として使用が認められるらしい。なるほど ここでも人間の死の定義と同じように人間の生命についての議論が起きているのである。要するに受精による人間の発生から死に至るまでの連続した段階の どこに生きた人間としての権利を認める線を引くかということらしい。しかしどこに境界を設けるにせよ、その根拠が便宜的なものでしかないのは目に見えている。どうせ実際上の必要に応じて適当な口実が設けられるに決まっている。受精卵のどの段階から人権を認めるかという論争があると聞けば、いかにも人類は生命尊重の意識が高いように思われるが、その一方で大規模な戦争における虐殺を合法またはやむを得ぬと認めているのだから、こうした議論が生命尊重の精神から発したものでなさそうなことは容易にわかる。そもそも生物のうちで人類だけを特別扱いする根拠もさほどはっきりしているわけではない。ダーウィンの 『人類の起源』 では 人類と他の生物はかなり連続した扱いがなされている。犬や猫という人類に密接な動物だけでなく、下等と見られている野性の動物まで含めて 意識など精神的な要素を認定しているように見える。となれば 人類にとって便宜的な根拠を持ち出して他の生物を保護したり捕獲したりするよりも、はっきりと生存競争の厳しい事実を認め現実に対応してゆくほうが、まやかしの道徳を持ち出してその場限りの対応をするより正直でよいという気もしないではない。ダーウィンはそれを生存競争という。それには自然淘汰と男女の間の性淘汰の双方が含まれている。彼は率直である。「近い将来に、すなわち数世紀以内に文明化した人種が、世界じゅうの未開人種を滅ぼしてそれにとつて代わるということはまずまちがいないだろう」 と言っている。そして 「類人猿も疑いもなく絶滅するであろう」 とある。たしかに人間以外の動物についていえば、人類の歴史はこの数万年の間、大型動物から順に次々に滅ぼしていく歴史であった。現在になって野生の動物の保護が唱えられているが、もしこの主張が本気でなされるのなら、このことが意味するのは過去数万年の人類の歴史のあり方を変えるということに他ならない。しかし実際には この表面的な主張を裏付けるだけの人類の新しい生き方をいまだに提出できずにいる。もしかするとそれは不可能かもしれない。野生の動物や自然状態の人間は、環境の変化に敏感に反応し、不妊により繁殖が阻止され絶滅する傾向があるという。動物園のパンダが子供を生まないのは特別な例ではなく 人間も含めた一般的なことがらの一つなのである。環境の変化に耐えられるのは文明人種と家畜だという。となると現在絶滅にひんしている野生の大型動物が生きのびる可能性は 家畜化することしかないということになるが、どうであろうか。

 その野生の大型動物である象を 一人で一年間観察する生活をしていた大学院生の女性の記事が 新聞に出ていた (『新京報』 2月20日)。西双版納にある自然保護区の野象谷で 野生の象の生存状況を観察してきたという。ここには全体として 250 頭ほどの象がいるという。私はこの地区がアフリカのどこにあるのかわからず しきりに辞書で調べていたが、とんでもない勘違いだった。彼女のいたのは中国の雲南省だったのだ。中国に野生の象がいたのを初めて知った。さすが大きな国である。毒蛇や熊に襲われる危険にそなえてナイフと薬品を準備し、ほとんどの時間をアリが動くのを眺めながら象の現れるのを待つのだそうだ。ある時は一度に 8, 90 頭の象に出会ったが 大抵は1,2頭だそうだ。40日待っても象が現れなかったこともあるという。象が現れたときは 彼等を驚かせないようにじっとしていなければならないが、その間に足に這い上がってきたヒルのため ジーンズに血が染み付いたともいう。こうした自然の中での危険について記者から質問をされると、彼女は 「自然界の物はたとえ恐ろしくとも、しかし彼らは人を脅威することはありえない。本当の脅威は人間からくるものだ」 と答えている。彼女が象を観察していて 小象と母象の姿に 「まったく人間と何の違いもない、彼等の親子の情は実際人間と同じだ」 と言っているが、これは自然な結論であろう。ダーウィンがいうように 人類とそれ以外の動物たちの間には 人類固有の事柄だと思われている事柄でさえも意外に共通点が多いらしいのである。

 そのダーウィンの本で感心するのは、彼もやはり自分の主張が仮説であることを自覚しているらしいことである。 「これまで書いてきた意見の多くは、非常に思弁的であって、そのなかのいくつかは、将来、まちがっていることがわかる時がきっとくるだろう。しかし、私はいかなる場合にも、なぜ他の考えをとらないで、ある考えをとったかという理由をあげてきた。」 「ゆがめられた事実というものは、後に長く尾をひくことが多いから、科学の進歩を著しく阻害するものである。しかし、まちがった考えでも、それを支持するなにかの証拠がある場合には、ほとんど害がない。なぜなら、その誤りを誤りとして証明することに健全な喜びをいだかない人はいないからである。」 独創的な考えを提出しうる人と、正しいか誤りかで論争したがる人との違いは、こういう点で差があるのかもしれない。もし本来の学問というものがあるとすれば、それはこういう姿勢と通じるものを持っているのではなかろうか。

 まだあいかわらず 『紅楼夢』 に関する本を読んでいるが、肝心の本文の方は 初めのほうを何度も行ったりきたりして進んでいない。本文については大昔翻訳で読んだ段階に留まっている。いま読んでいるのは 欧陽健 『還原脂硯齋 − 二十世紀紅学最大公案的前面清点』 (黒竜江教育出版社、2003) である。B5 版ほどの本で 800 ページを越す大部な本であるが、これがめっぽう面白い本なのである。すでに紹介したように中国では 『紅楼夢』 の初期の原稿の形態を保っているといわれる筆写本の真偽をめぐって 十年以上論争が続いている。表面的には偽作説の主張者は少数に見えるが、その論法はかなり鋭く着実である。脂硯齋というのが その筆写本に評を朱で書き込みをした主要な人物の署名であり、その内容から原作者 曹雪芹と親しかった同時代の人間らしいことになるが、はたして誰なのかは特定できない。この書き込みのある写本は三種だが、それと関連のあるらしい作品の写本をあわせると 10 種類を越す。これらの資料によれば 原作者の原稿として伝わっているのは初めの 80回 (うち2回が欠けているので実質78回) だけということになる。欧陽健のこの本は 脂硯齋による書き込みをすべて入力し、そのすべてを対象にして検討した結果、この筆写本が近代に入って作られた偽作であるということを論証したものである。彼は自分のこの結論を他の人にも検証できるように 脂硯齋の書き込みを全て入力した CD を本の附録につけている。

 脂硯齋 評本が偽作であるということになれば かなりの大事件になるらしい。「二十世紀中国文化史を振り返ると三つの古代文献の重大発見があり、世を挙げて注目する光芒を燦然と放っている − 敦煌文献、甲骨文、 『紅楼夢』 脂評本」 であるとも言われるほどだからである (鄭達夫 「走出象牙之塔」 『脂硯齋重評石頭記 甲戌校本』 作家出版社、2000)。この写本以外の 『紅楼夢』 で現存するもっとも古い資料は 1791年に出版された木活字本 『綉像紅楼夢』 120巻であり、これは出版二年後には日本にも輸出されたらしい。それまで 『紅楼夢』 は写本として伝わっていたらしいが 現在それらは残っていない。その木活字本については後半の 40巻は偽作であるとか、それ以外にも改作されたところがあるとか言われて 元の形について議論があったが、二十世紀に入って作者の原作に近い写本が発見されたというので話題になったわけである。ただしそのうち最も重要な書き込みのある 『脂硯齋重評石頭記 甲戌校本』 という 16回分しかない写本は謎の多い代物だった。所有者だった胡適は資料の入手先を明らかにせぬうえ、なかなか公開しようともしなかった。現在はアメリカの図書館にある。そもそも筆写本というのは印刷されたものと違ってかなり信憑性については慎重を要するものらしい。いつでも書き加えができるので元来の内容が断定しにくいうえ、筆写された文章の内容だけで書かれた時代を確実に決定することもできない。現在問題になっている三種の脂硯齋評本については 写本に記入された年代が主な根拠となってはいるが、それ以外にも当時の人物が書いた文の中で脂硯齋評本に触れたものがあるので、それも含めればまったく客観的根拠が欠如しているとはいえない。したがって偽作説を唱えるにはかなりな綿密な論証を必要とする。

 欧陽健の仕事は 現在の研究者の大多数が資料的価値に疑いを抱いていないこの脂硯齋評本に対して、予想される反論に対する反証を述べながら一つ一つの問題点を検証したものである。まず脂硯齋評本に触れた過去の文献そのものの偽作であることを証明することから始まり、筆写本の筆跡、記載された記事の矛盾点などかなり細かい作業を行っている。明らかにすることは、脂硯齋評本という文献が存在している事は事実であるからには、その脂硯齋という人物が誰であれ、その署名で評を書いた人物が存在したことも確かである。問題はその人物がはたして何時の時代に何処に住んでいた人物かが 資料から導きだせるかどうかということである。たとえば 脂硯齋の評に使われている言葉の中に ある時代以後にしか存在しない言葉があれば、その評はその時代以降に書かれたとほぼ断定できる。そのために欧陽健はおそらく四庫全書などのコンピューターによる検索も行ったらしい。その結果、出てきた結果から、脂硯齋は北京ではなくおそらく江南の人間であり、20世紀の初期に評を書いた人物と推測している。おそらく以前から 脂硯齋評本そのものの筆跡などの矛盾点については すでに疑惑がもたれていたらしく、現在この資料を本物とする立場からも この資料が最初に作品が書かれた当時に筆写されたものではなく、何段階かの筆写を経て伝わったものだとされていて、かなり複雑な系統図まで作成されている。しかしその系統図の中間に存在すべき資料が現存していないのだからこうした系統図そのものが架空のものである可能性がある。

 この話題は前回にも触れたし、私は この結果がどうなるかを紹介するのが目的ではないので 欧陽健の仕事についてはこの程度にしておく。ただ、この本でも学問のあり方に関してなるほどと思わせる言葉が散見するので紹介しておく。一つは この本に序をよせている侯忠義の文中にあるもので、同僚の理科教授の言葉を引用して 「科学研究は“書物を迷信してはならず、権威を迷信してはならず、伝統を迷信してはならぬ。”私はこの言葉は科学発展の実際に合致すると思う。本書の作者は権威を迷信せず、勇敢に既定の先入観に挑戦を提起し、紅学界が七、八十年維持して来た先入観を否定する新観点を提出した。実に得難く貴重だ。」 とある。また著者自身は、自分の発表に対してなされた次のような楊光漢の発言を印象深いものとして引用している。「この説が最終的な確証を獲得することを祈る。すれば、私本人は勇気をもって自分が書いた脂 [硯齋] 本に関係する全ての文章を否定するであろう。」 一見あたりまえのことを言っているように見えるが、過去の自分の業績を自ら全面的に否定するというのは勇気のいることであろう。この論争の結果がどうなるにせよ、学問研究の立場からいえば、それが正しいかどうかは問題ではない。その論証の手続きと根拠づけの妥当さが問われるだけである。もしこの論争に決着がつくとしても 可能性は一通りではない。完全な偽作、評のみが偽作で作品本文は根拠をもつ、評や本文が偽作であるにせよある根拠をもって伝わってきたものである、などなどである。

 すでに述べたように 記録では最初の木活字本が出た2年後には日本にも輸出されたことになっているが、はたして日本には古い版本がどの程度残っているのだろうか。戦前、北京大にいた日本人が 日本にはそれまで知られているのと後半が異なる 『紅楼夢』 伝わっていると述べたことがあるらしいが、そのような異本が本当にあったのだろうか。朝鮮では 19世紀の末に王室からの命によって翻訳されたと思われる一連の中国語の小説の中に 『紅楼夢』 が入っているばかりでなく 『補紅楼夢』 『続紅楼夢』 『紅楼夢補』 『紅楼復夢』 『後紅楼夢』 なども含まれているというから、中国での 『紅楼夢』 流行の状況を反映している。しかもこの 『紅楼夢』 120巻の翻訳は 翻訳文のみでなく朱筆による原文、そして原文の中国語の発音のハングル表記までそなえた極めて特異なものである。現存していないモンゴル語の翻訳も同様の形式だったというから、あるいは関係があるのかもしれない。この翻訳を韓国では世界最初の 『紅楼夢』 完訳というが、この筆写本の翻訳は王室付属の楽善齋所蔵のものであり 一般に公開されたものではない。例によって この世界最初の翻訳も 一般の翻訳とは同格に比較し難い点を持っている。それにしても これだけの仕事を残したことがただ事でないのは確かである。出版された翻訳としては 1960年に出た正音社のものが最初で 次が 1969年に出た乙酉文化社のものである。

 日本での完訳本としては 幸田露伴、平岡龍城による 『国訳漢文大成 文学部 紅楼夢』 (1921〜22) が早く、次いで 松枝茂夫訳の岩波文庫版 (1940〜1951、改訳 1972〜1985)、伊藤漱平訳の平凡社 『中国古典文学大系』 本 (1958〜1960) などがある。これらはどれも脂硯齋評本をもとにした翻訳であり 80回までは脂硯齋評本を使い あとの40回に活字本を使うというやりかたをとっている。幸田露伴のものはそもそも 80回しかないし、本文につけられた評が 『脂硯齋重評石頭記 甲戌校本』 と一致するところがある。この翻訳が出た時はまだ脂硯齋評本が世に知られていなかった時だから妙だと思ったが、この翻訳の原本となった石版刷りの 『国初抄本原本紅楼夢』 (1912) というのはそこに付された評も含めて脂硯齋評本と一致するところが多いものらしく、どうやら同じ系統らしい。しかもこの 『国初抄本原本紅楼夢』 の元になった本は 出版社によれば焼けてなくなったという。この話しからしてどうも怪しげである。いずれにもせよ 日本でも脂硯齋評本が重要視されているらしいことがわかる。この写本により 80回以降が本来どうなるはずであったかという考察も多数なされている。『紅楼夢』 というのは最初の活字本からして問題が多かったが、この写本を含めて作者についても作品についても謎だらけで 研究者の好奇心をかなり刺激するところがあるらしい。ただこの写本の評文については 「あまり能文とはいえず、その筆も極めて感傷的に流れたものが多い」 (岩波文庫) とはいいながらも、この評自体が偽作であるとまでは考えていないようだ。やはり外国の文学の研究に携わるものは本国の研究の結果を受け入れるほかはないのだろうか。そうだとすればかなり寂しい話である。

 さて話が中途半端になったが、2年にわたって上海と北京から送り続けてきたこの報告も いったん今回で一区切りということにしたい。中国にいながらほとんど旅行も観光もせず、中国に関しての報告というより、中国で読んだこと、考えたことといった内容だったが、私としてはこれから先のことについてかなり色々と示唆を受けることが多かったし、学ぶことも多かったと思っている。どんなことについても数万年におよぶ人類の歴史を念頭におきながら考えたいと思うようになったし、これまでの人類の文化についてもかなり冷めた目で見るようになってきたような気がする。数千年という文明の歴史があまりにもつかの間にすぎず、将来において可能になる成果のうち 現在はまだほんのわずかしか実現していないという思いがしきりにする。ましてや宇宙の歴史を考えると 人類を含めた生物の歴史など つかの間にもならない瞬間にすぎない。考え出すと虚しさばかりが襲ってきそうだ。もちろん、どの領域であれ、私たちの探求は与えられた条件に即してわずかずつでもあれ着実に前進することでしか可能でないことはわかっている。しかしそれにしても 私たちが精神的な領域で到達した成果があまりにもみすぼらしいものでしかないという思いを振り払うのは難しい。私たちに課せられた課題に対して、自分ではそれらに挑戦する隊列に加わる資格もないし 加わろうという望みもない。私自身はどんなに些細ではあれ、この私にとって気になることがらを明らかにする方向に進むことしか なし得ないと感じている。たとえそれらが他の人にとって何の意味も感じられないものであったとしても それは仕方ないことだ。これからの予定としていま考えていることは、上海に発つ前から考えていたことも含めてかなり多い。どれにも これまで考えてきたことがらに関する疑問点がからんでいる。はたしてその疑問が解けるかどうかおぼつかない。自分に残されている時間を考えると無理かもしれないという気がしないでもない。これからは ますます時間を無駄にせず計画的に使わねばならないと考えている。ますます人との接触が少なくなりそうである。これまでこの便りを読んでくれた人がどれだけいたのか 私にはわからない。もしかすると10人もいなかったかもしれない。内容について意見や疑問を述べてくれた人はほとんどいないが、そうやって連絡してくれた人には非常に感謝している。謝謝、再見!