三枝壽勝の北京通信


三枝壽勝の北京通信 2004. 11月 (2004/11/12)

 昨日あたりから気温が零下となり すっかり冬となった。市の中心部ではすでに零下の報告はあったが 正式の気温ではなかったらしい。それに風が強いとかなりこたえる。といってもまだ序の口らしい。やっと東京の真冬並みということか。70 年代のソウルでは零下 14 度の日が続いていたから、ここにいる韓国人がさかんに北京は寒いと言っているのを聞いて意外に感じていたが、どうやら最近のソウルはそれほど寒くないらしい。私といえば、相変わらずと言えばそれまでだが、とにかくいまだに不安定な状態が続いている。

 今日は明け方、眼を醒まして枕元の電気スタンドのスイッチを入れたが明るくならない。妙だと思って部屋を眺めると 部屋のコンセント全てに電気が通じていない。寝ている間にショートしてブレーカーが下りたらしい。妙なことだ。その間にはどの機器も使用していなかったのだから。コンセントにつながっているプラグを一つずつはずしたが ブレーカーがもどらない。ショートした状態のままだ。結局すべてのプラグを抜き取ったのに回復せずだ。コンセントの内側で何か起こったかもしれないと ドライバーではずして中をみたが異常なしだ。午後帰宅してから点検することにして出かけたが、戻ってみるといつの間にか回復していた。わけがわからない。

 二週間ほど前には アパートで自転車を盗まれた。その前日、外から戻って自転車を置く時に、近くに引越しのトラックが停まっていて、仕事をしていた数人の若者がこちらを見ていたので不吉な予感がした。私がアパートに入るやいなや トラックに積み込んで行ってしまったのではないかと思う。北京の街では、路上は原則として自転車は駐車が有料で 料金回収の係員が見張りの役目をしているので意外に安全である。大学やアパートの構内は不特定の人間の出入りが多い上、監視の目が行き届かないので偸まれることがあるらしい。自転車がないと不便なので 即日新しいのを買った。新しい自転車で海淀書城にいったところ、料金回収のおばさんがやってきて今日は自転車が違うじゃないと話しかけてきた。やはりこれまでもずっと見ていたのだ。

 先週は 例の電気のメーターに赤ランプが点った。気がついたときは 190 で毎日 25 前後減ってゆく。どうやら私は他の家の十倍ほどの電気を使っているらしい。とにかくメーターの数字が 0 になる前に家主に払いこみしてもらわねばならない。かなり寒くなっていて、ここで電気が停まると 冷蔵庫はともかくエアコンが使えず 私が凍えてしまう。北京市のアパートは原則として集中暖房だが、どうやら 11月 15日ごろでないと暖房が入らないらしい。しかも現在は入居者が暖房費を部屋の広さに応じて負担することになっているらしいが、どこも赤字で 40% ほど不足しているとか。とにかく電気が停まっては大変なので、メーターが 0 になる一週間ほどまえから家主に毎日電話をかけるのだが 一向にらちがあかない。こうしたことが起こるたびにこんなことを繰り返すのも煩わしいので、私が直接払い込みすることを提案したら気安く応じたので、来て手続きなど教えてくれるよういったが やはり反応がない。結局また不動産屋を通じて交渉することにした。不動産屋では 契約書に書いてあるのだからいくら大量の電気を使っても家主に払わすべきだという。その不動産屋の連絡で翌日払い込みするという返事をもらったが、翌日になっても払い込みしてない。またその翌日もあいかわらずである。その日のうちにメーターが 0 になりそうなので延ばすわけにゆかない。日曜にも関わらず繰り返し連絡をとってもらったところ、午後になってやっと家主の娘だかがカードを持って現れた。振込みをしたので このカードで処理せよという。いったいこのテレホンカードみたいなものをどうするのかと聞いたが 彼女もよくわからないという。ためしに電気のメーターを見ると 下のほうにカード差込み口がある。そこにカードを入れると 振込みした額がメーターに一瞬現れ、その後赤ランプは消えた。一旦はめでたし解決である。カードは引き抜いて保管すればよいらしい。メーターに赤ランプが点くたびに銀行にカードをもっていって入金すればよいということか (不動産屋では充電とかいっていた)。彼女はカードを置いていったが、これは今後は私が自分で振り込めをいう意味なのだろうか。こんな調子でなかなか落ち着かない。

 毎日の食事もおっくうだ。相変わらずアパートと市場やスーパーの間を往復し、食事の仕度をし 食べてはいるが、かなり面倒になってきた。なぜ人間は生きるため食べなければならぬのかと考えてしまう。とはいっても 市場に通うのはさほど苦痛ではない。市場の二階には 衣類をはじめさまざまな雑貨店がぎっしりで、その片隅に古本屋もあるので ぶらぶら見物するのは悪くない。二三日まえには冬物のジャケットを買った。以前には部屋着のトレーニングウエアを買うのに あまり値切れなかったので、こんどは先客が粘って値切って買って行くのを見ていて、そのすぐあとで買ったらこちらの言い値で売ってくれた。といっても あとでみたら付属品が一つ抜けていたが。

 市場に行く途中の線路わきには いまだに季節の果物を積んで馬車がやってくる。この間も荷台に柿が山盛りだった。市場の帰りに買って帰ろうと戻ってくると、ちょっとした事件が起こっていた。馬が盛んに動き回って 御者がけんめいに手綱を引いてなだめている。そのかたわらで 女性が喚きながらうずくまっていた。どうやら馬に蹴られたか踏まれたらしい。蹴るといっても後ろに荷車があるので思い切り蹴るわけにはゆかぬから さほどの衝撃ではなかったにせよ、なにせ相手の図体が大きい。もしかすると それほどのことでなく馬が動いた拍子に 馬車の車に足を轢かれたのかもしれない。もし馬に思い切り蹴られたのなら おそらく顎の骨がそっくりそのまますっとんでいたかもしれない。北京でも馬がさほどありふれた動物でなくなったので、あしらい方を知らず後ろから近づいて撫でようとでもしたのだろうか。馬に後ろから近づくのは 命知らずの一番危険な動作だ。

 毎日買い物し食事の仕度で時間が過ぎて行く。そんな調子で 新聞を読む余裕もない。毎日 新聞は買っているのだが 何も見ずに終わることが多い。気がつくと 何時の間にか新潟では地震が発生しその後も持続しているとある。アメリカでは大統領の選挙がいつの間にか終わっており、アラファトがいつの間にか亡くなって葬式だという。こんなことがかなり遠い世界の出来事にしか感じられない (当たり前か?)。上海ではいろんな記事を見てきたので 世界の状況や人間の社会における出来事にあまり感じなくなってしまったのだろうか。とにかく毎日かなり狭い世界でしか動いていないことを感じる。相変わらず不安定だとはいえ ここでの生活がだんだん落ち着いてきたので 毎日の行動がほとんど同じことの繰り返しになってきた。上海でも本を読む時間はそれほど多くなかったが、ここに来てからはほとんど本を読む時間がなくなってしまった。

 とはいっても全く変化がないわけでもない。先月は何人かと郊外に紅葉見物に出かけたし、八達嶺ではないが長城にも行って来た。紅葉は北京の北西の香山に 10 人ほどで車を調達して行った。この車は面包車 (食パン車の意) というものだったが、高速道路を出るあたりから様子がおかしくなった。渋滞でまったく動かないのである。週末の土曜に出かけたのが悪かった。そこから延々香山にいたるまで車と人で道路が埋っているのだ。結局 目的地のかなり手前までやってきたところで先に進めず 歩くことになった。とにかく 山の麓から上まで人で埋っている。山全体が 通勤ラッシュどきの電車の駅の通路並みなのだ。ようやく山の頂上がかなり先に見える所までやってきたが、上から下りてくる群集と上に上がろうとする群衆が 狭い山道でたがいに押し合いで大変なありさまだ。もちろん 上にいる人間が下りてこなければ上に上がれるはずがないのだが、登り道の途中でそんなことを言っているわけにはいかない。斜面でじっとしているのは疲れるし危険なことなのに、そのうえ互いに押し合いなのである。一つ間違えれば人間が雪崩を打って死傷者がどれほど出るかわからない。さすがだと感心したのは、それほどぎっしり詰まっていて戻ることも進むこともできぬ人間の間をぬって 無理やりかき分けて進んでいく人達がいたことだ。私達はこんな状態で身動きできないまま時間を過すわけにゆかぬので、山の斜面に下りて灌木をかきわけ下山をすることにした。こんな訳で 香山に来たのに見物すべき名所にも寄らず、枕草子で有名な香炉峰も見ずに来てしまった。いったいこのすさまじい人間は 何をしにやってきたのだろうか。どうみても紅葉を鑑賞するという雰囲気からはかなり遠い感じだった。麓にもどってからも大変だった。帰りも同じ車で帰るはずなのだが、いったん市内に戻ってしまった車が連絡でやってくるまで 路上で二時間も待った。とにかく北京で休日に行楽に出かけるのは禁物であることを知らされたのだった。

 最初に報告で 北京の道路の規模の大きさに驚いたことを書いたが、これはすこし訂正する必要があるかもしれない。たしかに幹線道路はすばらしく広い。とくに北京には中心から順に番号のついた環状道路があって 今ではたしか六環まで開通している。私が今いるところのすぐ傍を四環が通っており すこし北を五環が走っている。一番内側が二環で一環というのが無い。話では天安門から故宮に沿って一回りするのが実質的に一環だともいうが はたしてどうだろうか。それ以外の道路はさまざまである。たとえば私の今いるところの南側の道路は舗装がめちゃくちゃで 雨が降れば水たまりで自転車で走るのが危険だ。市場の横の道はその舗装さえもなく バスがいつも土ぼこりをあげて走っているうえ、一部は天気の日でも水溜りのままだ。そして線路わきの道は次第にゴミ捨て場と化しつつある。一日中 几帳面に歩き回って掃除をしてあるく清掃員も ここには手を触れない。どうやら管轄が決まっているのかもしれない。雨が降ると水溜りで歩くのがためらわれる道は意外に多い。

 それでもここの道路を見ていると 上海とはかなり様子が違うのは確かだ。北京が上海に比べて進んでいるとか遅れているとかいうのは難しい。前々回だか書いた 上海のビルディングがグロテスクで 北京が垢抜けているというのも訂正しなければならない。ビルディングそのものは 北京も上海もさほど変わりなさそうだ。ただ北京の街のだだっぴろさが 個々の建物の印象をかなり薄めているらしい。中心街では とにかく巨大な建造物でも建物と建物の間に空間があるので かなり街の様子が違って見えたらしい。その街を走っている交通手段に 自転車を使った輪タクが多いのは意外だった。上海にはなかったので、かなり地方にしかないと思っていた。これは日本でも 私たちの幼いころにはまだ盛んに使われていて タクシーの代わりに利用したものだ。自転車に人力車をつないだものといえばよいのだろうか。さほど高級ではなく 単に自転車に小さなリヤカーをつけて四角く幌をかけたものと言うほうがよいかもしれない。そしてその客席が前向きで自転車の運転手の背中を見ながら乗るのと、客席が後ろ向きで後ろから乗るものがある。後者はなんだか平安時代の牛車を思い出させる。といってもそんな優雅なものではないが。どちらも中心街でもかなりよくみかける。そういえば上海では 自転車にリヤカーをつけて荷物を運ぶのをかなり見かけたし、そのリヤカーに人が乗っているのにもよくお目にかかった。北京にきてからそうしたリヤカーをあまりみかけないと思っていたら、そうでもなかった。場所によっては リヤカーに人間が乗っていることも多い。違いといっては 上海ではたいていリヤカーの荷台に後ろ向きに乗っていて 後ろから来る車の運転手と顔を見合わせることになることが多いのに、北京ではたいてい前向きに坐っていて、後ろからみると背中しかみえない。この違いはどこから来るのだろうか。そういえば中国の船は坐って漕ぐときも前向きで、日本の公園のボートのように後ろ向きには坐らない。荷物を運ぶのに北京はリヤカーをかなりよく使う。上海のような天秤棒は一度みただけだ。

 交通といえば ここではバスに乗るのが大変だ。地下鉄を下りてバスに乗り換えるのに、もよりの停留場というのが 駅からかなりの距離だ。古本市に行くため 北京駅から地下鉄をおりバスに乗り換えたとき、バスの乗り場から駅の方をみたら 遥かにかすんでいた。これでは もよりの駅などとは言えないのという気がする。それでも これはまだましなほうで、おなじバスに乗るのに 地下鉄崇文門で下りて乗り換えようとすると バスの乗り場から地下鉄の駅は見えない。かなり離れていて 乗り換えのため歩く時間のほうがバスに乗っている時間よりも長い。

 この北京駅の付近は 市内でもかなり雰囲気が違う。いつも大勢の人でごった返している。バスの乗り場にいる人達にも 地方から北京にやってきたらしい人が多い。たいてい大きな荷物を引きずっている集団で 服はかなり汚れており 何ヶ月も風呂に入っていないような感じだ。北京は 常時こうした人たちが出入りしているらしい。そのせいかどうかわからないが 道路で唾を吐く人の数は上海と比較にならぬほど多い。天気のよい日は 前方の自転車が唾を吐くと 一瞬 水シブキが銀色に輝く。もしかすると乾燥した気候のせいかもしれない。その北京の空気は公害でかなり汚れているという。晴れの日が少なく一日中曇っている日が多いが、それはその公害のためなのだという。それでも以前よりはかなり良くなったのだそうだ。しかしスモッグのため一日中太陽が見えないというのはかなり深刻だ。昔はロンドンの霧が有名だったが スモッグには社会体制の違いは関係ないらしい。それに北京は例の黄沙が常に舞っている。今はあまり窓をあけないようにしているが、それでもかなり頻繁に床を拭かないと 細かい泥がすぐにたまってくる。これだけ細かいと少々のことでは進入を防げないらしい。どの家も同じなのだろうか。もしかすると中国北方の人には肺疾患がかなり多いかもしれない。だとすると SARS のときかなり犠牲者を出したのも理由があることになりそうだ。もしかすると日本の気候がかなり特殊で世界にはこうした土砂の舞っている地域のほうが多いのだろうか。

 まだなかなか慣れないのは やはりトイレだ。中心街のビルの横の路地の公衆便所のことを書いたように覚えているが、北京の胡同 (路地) のトイレをオリンピックまでに改造するという方針が新聞に出ていた。しかし伝統的なトイレは単に従来の住宅地の公衆便所に限らない。コンピューター街の中関村の近くの 海淀図城のトイレも従来式だ。しかもかなり薄暗い。近くの新華書店でトイレを借りたときも同じだった。しかし北京の人は トイレに扉が無いのをさほど不便に感じていないらしい。それどころか 扉を煩わしく感じているのではないかと思わせるふしもある。地下鉄のホームの片隅にあるトイレに入ったとき、扉があるにも関わらず戸をあけっぱなしにして坐り 首を外に突き出すようにして用足しをしていた。しかも彼は大声で外にいる女性 (恐らく妻) と話をしていたのだ。そういえばここのトイレでは 扉があろうがなかろうがトイレで用足しをしながら話をしている人が多い。だからなのか 中国の映画にこうしたトイレを舞台にしたものがある。『人民公厠』 という題名で四カ国のトイレを舞台にしたもので 最初は中国、トイレでしゃがんでいる場面がかなり多い。そして韓国釜山、インド、ニューヨークと続く。こういうのは やはり中国でないと作れないのだろうなと感じてしまうのだが、ベニス映画際で何かの賞を取ったというのはどういうわけなのだろう。戸のないトイレ自体は慣習の問題だから ことさらどうのこうのと言う必要はないのだろうが、それでも儒教道徳が少なくとも支配者層で重視されていた風土と どう折り合うのか未だによくわからない。そういえば潘家園の骨董市場のトイレで 男のズボンがずり落ちそうになったとき、中に穿いている毛糸のパッチがみえた。やっぱり北京の人でも寒いのかと安心した次第だ。

 最初ここに来た時に感じたのは 道路の広さや北京市の規模だけではなかった。ここの言葉もかなり印象的に感じたのだ。上海にいるときにくらべ かなり聞きやすかったのだ。何かを尋ねても二度以上聞き返されることはない。たいてい通じるのだ。上海では最後には漢字を見せねばならぬことが何度もあった。この違いはどこにあるのだろう。私の漢語の実力が上がったわけではない。いまだに言葉の上達などかなり距離のある状態だから。もしかすると北京の人は色々な発音に対する寛容さを備えているのかとも感じた。こちらのバスの車掌をみるとそんな感じもする。上海と違って 北京ではバスに乗ったとき何処から何処まで行くかをはっきりさせないと切符をくれない。距離によって値段が違うからである。四声を間違えてもたいてい通じるのを見ると かなり勘をはたかせてくれるのかな、とも思ってしまう。それとも北京では おおまかには学習する普通語との距離があまりないので こちらの発音もこちらが聞く発音もかなり近いのかもしれないという気もする。九月にビザの問題で上海に行った時、地下鉄の案内のアナウンスがかなり聞き取りにくかったのに 北京ではかなり伸びがあるように感じたのをみると そんなこともありそうだという感じもするのだ。

 それよりも最初ここに来た直後、店で L、M、S の発音を実際に聞いた時のことが印象的だった。たしか衣類のサイズを言う店員の少女の発音がアイル、アイム、アイスと聞こえたのだ。やっぱりそうだったかと 北京にくるなり確認できて感動したのだ。しかしはたして彼女がどう発音していたのか今となっては疑問だという感じもしてきている。もしかするとあれはエイル、エイム、エイスだったのかもしれないという気もしているからだ。というのは中国では “e” をエイと発音する傾向があるようにみられるようだからだ。記憶があいまいだが ドイツ語の Leben だったか Tee だったかの発音をはっきりレイベンだったかテイと発音していたし、フランス語の mes や nez をメイやネイと発音するのを聞いたような気がする。もしこの程度ならさほど奇妙なことでもない。私たちもアルファベットの a をエイと発音しているのかエーと発音しているのかはっきりしない。しかしあまり自分の知らない事に深入りするのをやめよう。とにかく北京にくるなり店員の発音を聞いて感動したことだけが確かなことである。

 言葉といえば、ここに来て 『論語』 にざっと目を通してみた。むつかしい言葉などは無視しておおざっぱな語法だけに着目してだ。やはりと思ったのは、中国は何千年にもわたって文法の基本的なところはほとんど変わっていないということだった。単語の使い方はかなり変化があるにせよ 語法は同じなのだ。古い所でもそれほど似ているのだから それより新しいところでは言うまでもない。『金瓶梅』 の一部を拾い読みした時には まるで現代語と変わり無いではないかというぐらいに感じた。とくに現代語の書面語という書き言葉特有の言葉に限定せずとも 日常良く使われる単語でもかなり理解できるのだ。だから それよりも新しい 『紅楼夢』 にいたっては すこし古めかしいということや 状況や背景が独特なことを除いて 言葉の語法に着目すれば現代の作品と変わりなく読めそうな感じがしてくる。といって古典がやさしいということではないが。逆にいえば現代語がかなり難しいということになるのだろうか。古典文学に使われる語法が そのまま現代でも慣用句や成句として基本的に使われているというのは かなり奇妙な感じがしないでもない。私たちの場合 あまりにも使い古された言い回しを頻繁に使うことは避けるようにしているが 中国では逆なのだろうか。それとも他に表現の仕方がなく そういう言い回しを使わねば表現が出来ぬのだろうか。よくわからない。

 こちらに来てやっと初めて一冊読み終えたのが 『紅楼夢』 に関する解説書、周汝昌 『紅楼小講』 だ。1918年生まれだというこの紅楼夢の大家はいまでも健在らしく 最近 紅楼夢に関する本を立て続けに出した。それ以外にも 最近でもこの作品に関する啓蒙書が次々に出ているし、常時多くの研究書が書店に並んでいる。さすが中国の紅楼夢の研究の膨大さには感心させられる。作品そのものを中心にする時は紅学、作者に焦点を当てた研究は作者の名前 曹雪芹をとって曹学と言うらしいが、どちらもかなりの密度で研究が蓄積されているらしい。周汝昌 『紅楼小講』 もかつて発表した大著 『紅楼夢新証』 で名をしられた人だが、VCD で彼の講義を聞くと とても老いを感じさせぬその情熱的な語り方はかなり魅力的で訴えるものを持っている。紅楼夢の研究を垣間見て感じるのは この作品が実に複雑な要素を持っていると同時に、これだけ膨大な研究にもかかわらず なんとその解釈の多様なことかと感嘆する。作品は未完で 現在の作品は後世人の継ぎ足しによるものだが、その結果にたいする評価も一致していない。しかし未完の部分と継ぎ足された部分では 作品の意図にかなり違いがあることは 一致して認めているようだ。とにかく 作者については残された資料があまりないにも関わらず よくもここまで徹底して調べたものだという思いもする。もしかすると 紅楼夢研究というのは 聖書の研究に匹敵するのかもしれないと思ったりもする。周汝昌の本を読む限り、紅楼夢というのは作品中に実に多くの暗示と複線のちりばめられた 謎解きを要する深みのある小説なのだ。

 紅楼夢に限らぬが ここでの出版物や研究の膨大さをみれば 到底それらの全てに目を通すなどということは不可能だと言う感じとともに、それらの全てに目を通す気も起こらない。そのことから漠然と感じるのだが、将来はどの分野においてもおそらく研究や業績の蓄積が膨大になり、決っして個人の力ですべて読むことが不可能な段階に達するのは確実だ。それはその分野の業績全てではなく 基本的なものだけでも膨大になっているということだ。たとえばこれから千年後を想像してみればよい。そのころにはもう過去の基本的な業績ということさえ意味を失っているのではなかろうか。過去にどんな重要な業績があったにせよ 基本的なものだけでも 10000 冊にも上るとすれば どんなにがんばっても読めないのだから 多くの人間に共通の必読書という意味は失われてしまっているはずだ。もしかすると人間の寿命が 1000 年を越すとか 知的能力が飛躍的に発達するとすれば別だが。もし過去の業績がそういう状態に達したとき、人類に相変わらず知的な営みとして研究に相当するものが残っているとすれば その役割はどういうものだろうか。まず過去の文献調べや調査は 全く意味をもたなくなっている。それでも過去の人類の文化を理解するためには 過去の文献や資料を理解しなければならないと言えるのだろうか。おそらくそれも無意味になっているだろう。現在目の前にいる人間も理解できぬのに、現在よりも拠り所の少ない過去の人間の営みなど どうやって理解できるのだろう。さらに 理解してどうしようというのだろうか。おそらくその段階では過去の業績にしがみついた営みなどよりも、それらにまったく依拠しない独創的な事柄をどのように提起するかにしか意味が無くなっているのではなかろうか。私たちが現在おこなっている学問の営みなぞ、その段階からみれば単なる屑紙蒐集にしか過ぎぬのではなかろうか。

 最近何をみても すぐに虚しさを覚えてしまう。現代の世界を見ても大昔と基本的に何も変わりがない。人類の歴史に進歩など もともとなさそうだが、そもそも人類の歴史に意味があるのだろうか。現在の国家や民族や体制間の殺し合いでも、もとをただせば異質どころか十万年前には同類だったものの 後裔同士の争いにすぎない。現代人の発生の段階を見れば 同じ祖先を持つもの同士のうち どちらが生き残るかという問題にすぎないとすれば、どちらが生き残ろうともさほど変わりはないのだろうか?おそらく正義など問題にはならぬのだとすれば、どちらを選ぶかにさほど意味はないのかもしれない。いったい人類は何のために生存を続けるのだろうか? 元を正せば同じ祖先?だがそれよりまだ先にさかのぼれば? 全ての動物は? 全ての生物は? みな同じ起源を共有しているのではなかったのか? この発想はかなり危険である。生物の発生から有機物の発生に、さらに地球上の有機物の発生に、さらに地球の形成に、そして太陽系の発生に、さらに宇宙の発生に。現在提起されている理論では ビッくバンにより無から宇宙が、言いかえればこの世が形成されたという。とすれば 現在ある全てはもともとは無ではないのか。何のことはない、昔の人が感じとった無の話を 理論的に裏付けたのとどれほどの違いがあるというのだろうか。どんなに力んでもせいぜいその程度しか出てこないのだろうか。もっと根本的に画期的な発想法というのは 人類には不可能なのだろうか。などと言うのも 老人性憂鬱症の兆候なのだろうか。