三枝壽勝の北京通信


三枝壽勝の北京通信 2004. 10月 (2004/10/09)

 この間、北京からの便りを送ったばかりなのにもう一月が経ってしまった。とにかく猛烈な勢いで時間が過ぎていく。

 9月の中旬に雨が二日ほど続けて降ったと思ったら たちまち涼しくなった。朝市場に行く時見ると 皆一斉に長袖に変わっている。それでも昼間はかなり気温が上がり 半袖のほうが過しやすい日が続いた。10月1日の国慶節のまえの数日は まいにち曇りがちで いっこうに太陽が出ないと思っていたら、月末 30日の昼前から雨が降り出し たちまち土砂降りで夕方になってようやく上がった。翌日は一面の青空、すばらしい天気、ただし猛烈な風が吹いてかなり寒い。まるで冬になったようだ。みなジャンパーを着込んでいるし、皮のコートを着た女性もいる。前の日まで半袖で過せたことが嘘のようだ。ここでは雨が降るたびに気候が激変するらしい。この国慶節前の雨、ある日本人が藥をまいて雨を降らせているそうですよと言った。ありそうなことだという気もする。飛行機からヨードだかその化合物だかをまいて雨を降らせるというのは 日本でも大昔話題になったことがある。

 北京があまりに広すぎて 周りを見回してもスカイラインが低い所にあるので 青空になると空は一面 青色一色だ。上海にいるときには 上海は雨が多いので空気がきれいだが、北京は常に黄沙が舞っていて空気が濁っていると思っていたが、意外に澄んでいるので期待はずれの思いをした。アパートで窓をあけっぱなしにしておくと 風が気持ち良く通りぬけるので 一日中そうしていたが、上海とちがって いっこうに土ぼこりがたまる気配もない。どうしてなのか納得できなかった。合点がいったのは かなり経ってからである。台所の床はタイル張りである。その床を雑巾で拭くと どうしてか雑巾が真っ黒な色になる。ちょっと目にはタイルは真っ白で汚れているようにも見えないのに 雑巾がけすると黒くなるのだ。最初は様子が飲み込めなかった。食事の仕度をするときのゴミのせいなのか、ときどきやってくる家主や 彼と一緒にやってくる人が土足なので そのせいなのかとも思っていた。しかしそれにしては程度がはげしい。あるとき ハッと気づいた。これは土なのだ。かなり粒子の細かい泥が 床を 一見してはそれとは見えないほどに覆っていたのだ。もしやと思い居間のフローリングも拭いてみた。やはり黒くなる。ここに来てから毎日窓を一日中あけっぱなしにしていたので 外から入ってくる空気中の細かい泥が目に見えぬほどの程度ではあるが堆積していたのだ。やはり北京の空気には泥が混じっていたのだ。それからは 窓は朝のひと時空気を入れかえる程度にしたが、それからは床を拭いてもそれほど黒くなることはなくなった。おそらくこれから冬 そして春にかけては黄沙がかなりひどくなるのだろうと思う。雨が降るのは <下雨> というが黄沙は <下黄土> というらしい。

 北京にきてから一月が過ぎて やっと生活が落ち着いたと言いたいところだが、それでも騒動は続いている。国慶節の日 電話がまた不通になった。公衆電話で家主に連絡した。ところがいっこうにらちがあかない。一向に代金の振込みをしてくれないのだ。直接部屋まで見にも来、そのとき外からかかってくる電話は通じるから問題ないよとか言って帰っていった。私には北京市内からかかってくる電話があるはずがない。海外からの電話なら可能性があるが、これならやはり不通なのだ。中国では 海外からの電話では受け取る方からも電話代を徴収するので、電話料金が問題になる場合にはこれも、通じるはずがないのだ。翌日になっても電話は不通のまま。けっきょく足掛け三日間電話が使えなかった。まだ言葉が不自由で意思疎通がうまくいかない。最後は例によって韓国語を使って不動産屋に訴えて解決したが、どうしてこんなことが続くのかよくわからない。金を支払うのを渋っているからなのだろうか。個人で電話を引ければ問題ないのだろうが、どうやらまだ無理らしい。二度あった電話の不通にせよ、停電にせよ、妙なことに休日の朝に起きている。いったいどうしてなのだろうか。べつに大した意味はなくて偶然なのかもしれない。とにかく家主が金を払うことになるとなかなか事態が進行しない。このことでは外国人居留登録のときもかなり苦労したが、その話をするには そのまえに起こった騒動にさかのぼって話しをしなければならない。

 先月の中旬、入国して一月以内に居留申告をしなければいけないと思っていたところ、私のビザはとっくに期限が切れていると言われた。私はパスポートに記載されている日付が入国の期限であり、それまでに入国さえしておいて、あとは一月以内に申告すれば問題ないと思っていた。それは全くの勘違いだった。パスポートに記載されている日付より以前に 居留申告を済ませていなければならないのだという。もし期限をすぎたら一日につき 500元の罰金だという。私の場合 二週間ほど過ぎているから 7000元ほどになる。日本円で 15万円ほどだ。念のため公安、すなわち出入国管理所にいったら、やはりだめだった。受け付けてもくれなかった。どうすればよいのかと聞いたら、上海に行って処理してこいという。大変なことになったとあわてた。公安を出てすぐ航空券の予約をしに走り、翌日の朝 上海に経ち 日帰りで戻ることにした。おそらく事務的な問題ならすぐに解決するだろうから日帰りできると考えたのだ。

 翌日の朝の飛行機だったが、上海についたのは 11時ごろ、午前の締め切り時間 11時半には間に合わなかった。窓口は午後一時半に受け付ける。中国の昼休みは二時間であることを確認させられた。昼休みから列の一番前に並び、午後一番の受付で窓口にいった。案の定 受け付けてくれない。別の係りに行けという。期限切れなど問題のケース専門の係りらしい。ところがそこでも受け付けてくれない。建物の外に回って 公安の 10階にある第五處の担当官に話をせよという。そこで 私がいた大学を担当する公安官に会って話をせよというのだ。どうやら公安には 大学ごとに外国人を専門に担当している担当官がいるらしい。とにかくその建物に行き 受付に話して その担当官を呼び出してもらうことにした。かなり待たされた。やっと現れた担当官といっしょに受付の部屋に入った。いったい何だと言うから、事情を話したが、いっこうに相手にしてくれない。何の話してるのだかさっぱり分からんと繰り返すばかりだ。あげくのはて、お前のいた大学に電話しろという。けっきょく彼が大学の事務に電話をし、私が出て話をしたが、特別に話があるわけではない。大学で私のことを覚えていてくれたことぐらいが確認できたことだろうか。それだけでよかったのだろうか。公安の担当官が私に坐るよう言ったあと、いったいなんで北京の公安で受け付けてもらえないか 自分で分かっているのかと聞いてきた。さっぱり分かりませんというと やっと説明をしてくれた。問題になっているのは二点。第一は私が上海で転出手続きをせずに北京にいったこと、そして第二は居留申告の期限をオーバーしていることだ。この二点が解決せぬかぎり 私が北京で居留申告をすることはできぬというのだった。担当官は私にとにかく完全に解決するまで何日かかかるので、その間上海に滞在して待てと言う。私は 日帰りのつもりで往復の航空券買って来ているので今日中に帰らなければならないというと、そんなことは無理だという。とにかくひたすら下手にでるしかなかった。相手の言うままに動いた。まず調書作成。また もとの出入国管理處に行き供述を取られた。そのときに、この取調べでは賄賂をとることや拷問などは禁じられているなどの 何項目かにわたる事項の読み聞かせも聞かされ、同意のサインもした。とにかく前後にわたって約3時間ほど、この担当官は私のために非常によくやってくれた。まず 罰金は二千元と割安な決定をしてくれ、近くの銀行に振り込みに行く時には案内までしてくれた。銀行はかなり混んでいたうえ 後から来た男性と順番のことでもめごとになった。男性がかなり声高な調子で文句をつけてきたのに この係官は終始笑顔でなにも応答しなかった。結局ここで待っていてもらちがあかぬとみて、かなり離れた場所にあって比較的空いている銀行に行って支払いをすませた。もどってから 転出届けと有効期限の一月延長の手続きに入ったが、彼自身が係りの窓口にゆき直接交渉し、しかも最後は即決の許可を得るため上の階に上がって 30分もかけてすべての手続きを済ませてくれた。本来なら一週間後に受け取れるはずのところだ。最後に手数料を払い 旅券と居留証を受け取った時、彼もやれやれと言った様子で、これで今日の夕方の飛行機で帰れることになったよ、と言ってくれた。感激のあまり思わずお互いに両手で握手をした。ほんとうにご苦労さまでした感謝の気持ちでいっぱいになった。とにかくこのことでは本人の私より彼のほうが何倍か動き回っている。公安を出るやいなや 目の前のタクシーに乗って空港に駆けつけた。予約は3時だったが、もちろんその時間はとっくに過ぎている。ここでは同じ会社の飛行機ならその後の便に乗るのは自由だ。6時半の飛行機に乗り戻ることができた。夜9時過ぎアパートに戻ると 部屋の鍵がない。どこへ落としたか見当もつかない。外に出て電話を借りて家主に来てもらい鍵を受け取ったが とにかくあわただしい一日だった。ところでこの鍵がなんと 何日か経ってから小銭入れの中から出てきたのだ。この日はかなりあちこち走り回ると思い 用心のためあらかじめそこに入れたらしい。なぜそこを探すことに気づかなかったのだろうか。おそらく北京では硬貨を使うことがほとんどないので その存在に気づかなかったのではなかろうか。

 翌日すぐに北京の公安に行った。居留証については問題がなくなったことを確認した。ところがまだ受け付けてくれない。私の場合、外国人としてアパートに入っているので 派出所で臨時住宿登記表という証明をもらってこないとだめだというのだ。これは家主と一緒に行かねばもらえぬという。さっそく家主に話したら、どこの公安がそんなこというのだ、そんなものいるはずないのにと言う。どこの公安と言われても、出入国管理所でそういうのだから、私にとって要るの要らぬのと言える立場ではない。ぜひ一緒にいってもらわねばならない。ところがそれからは、毎日頼んでいるのに一向に出かけようとしてくれない。午前中に電話すると、午後にしてくれと言うし、午後電話すると今重要な仕事ができたという。なぜか分からぬが どうやら出かけたくないらしい。こんな調子で一週間ほど過ぎた。このまま時間が過ぎると せっかく延長してくれた居留証の期限をまた超過して再度の罰金だ。例によってこのアパートを紹介してくれた不動産屋に尋ねた。どう言うわけなのだろうかと。ああ、それは税金を払わないといけないからですよと言ってくれた。なるほど。ここでは税金の徴収がうまくいかないので、尻に火のついた外国人を巻き添えにして徴収しているのかもしれない。高いですかと聞くと、かなり高いという。中国ではどこでもそうなのかと聞くと、いや北京でもこの地区だけだという。なんだかわけが分からなくなった。結局不動産屋から家主に連絡がゆき、あらたに細工した契約書を作成し、それを持って出かけることになった。意外だったのは まず税金を払う派出所の出張所というのが私の部屋のすぐ下にあったことだ。そこで家主がいくら払うか見ていたら 300元だ。これしきの金を払うのを渋って一週間もやきもきさせられたのだった。そしてその証明をもって派出所の行き やっと臨時住宿登記表を受け取った。どこに住んでいるかを書いた小さな紙切れだ。中国での派出所というのは警察署の派出所ではなく 戸籍を担当する官庁の機関で区役所のようなところらしい。これで必要な書類がすべてそろったので やっと居留証が発行されることになったが、受け取ってみると、北京で新たに作成したもので、上海のものは返してもらえなかった。記念になるのにと残念な気もする。北京に来てからここまでで 一月以上もかかっている。

 とにかく やきもきさせられた一月だった。心に余裕がないと 体の動きもぎごちなくなる。始終どこかにぶつかっていて足には傷が絶えない。最近ではキャスターつきの椅子が滑って床に転んだ拍子に 尾てい骨を打った。三週間ほども痛みが消えない。なんだか これからも北京では事故が起こりそうで 気が抜けない。とにかくこうやって次から次へといろいろな事が起こるので、かなり喋らねばならない。上海では一年半ほとんど人と喋ることなく過したが、ここにきてからはそんなわけに行かない。といっても いざとなれば韓国語で喋ればたいていのことが解決するので 気楽といえば気楽だ。すこし落ち着いてくれば、またどこにも出かけぬようになるかもしれないと、思い切って平日に故宮の博物館に行った。人の話では 中では団体が弁当を持ってきて食べているというので弁当まで作って持参した。まず天安門に登った。上では 金を出すと日付と時間そして名まえ入りの参観証明書を作ってくれる。ところでこの天安門にはいる入り口の前の列が 男性と女性と分かれている。妙なこともあるものだと思ったら、空港のように身体検査があった。最近は警戒が厳しいのかもしれない。故宮に入るときも手荷物は一切禁止で 預けさせられる。せっかく弁当持ってきたのにこれでは何にもならない。抗議すると、日本人なら良いといわれた。本国人には厳しいのだ。中に入ると 至るところ工事中で どうやら多くの展示物は倉庫らしい。私は巨大な玉に彫られた禹の灌漑工事の彫刻さえ見ればよいと思っていたから、一応そのの望みは果たせて満足した。とにかくこの国は桁違いに大きなものが多い。玉といえばせいぜい指輪にするとかいう程度が普通なのに、これは高さ何メートルもある岩のような玉石の塊なのだ。望みは一応果たせたが 問題は弁当だった。話に聞いていたのとは違って どこを見ても食事をしている人の姿がみえない。とにかくどこも清潔だ。ベンチに坐っていても 始終前を掃除する人が行き来していてゴミが落ちているとたちまち処理してしまう。食べ物を食べるところといっては インスタントラーメンを食わせる簡単な食堂しかない。しかたないので その店の前にある野天のテーブルに坐って弁当を広げることにした。さいわい平日で そこにはさほど人がいない。店の人もさほど気にしている様子もないので 気兼ねなくゆっくりと食事をした。おそらくこの日 何万人かの故宮の参観客のうちで 弁当を持ってきて食べたのは私一人しかいなかったのではなかろうか。

 外出といっては それ以外にはせいぜい書店に出かける程度だ。新刊書店としては北京大の近くに本格的な書店が三軒あると言ったが、それ以外にも 中心街にあると同じような三階建ての中関村図書大厦というのがあるのを知った。本のデパートはこれで合計三つあることになるが、どれも もとは新華書店という国営の書店が模様替えしたものらしい。北京大の近くにかなり書店が集中しているおかげで 新刊書は中心街にでかける必要がなくなった。これらの本屋のうち一部では 古本のコーナーが設けられることがある。古本といえば 前回の報告のときはまだ行っていなかった 市の南東にある潘家園の市場にも行ってみた。ここは骨董品が中心で、それはさすが規模が大きい。広い面積に何千人の業者がいるのかわからぬほどぎっしり詰まっている。その片隅が古本である。ある本には千人ほどの業者が出ていると書いてあったが、私のみるところせいぜい三百人ほどである。皆地べたに本を並べて その後ろに売り手が坐っている。めぼしい本がどんどん出るというわけには行かないらしいが、続けて通えばかなりの成果があるかもしれない。北朝鮮で出た五六十年代の小説もでていた。驚いたのは 買い手が奥にある本を取るため 手前の本を土足で踏んで入り込んでいくのだ。本をこんな風に扱うとはと 驚いたが、あとで見ると売り手も本を踏みつけて立っていたりする。そんなものなのかもしれない。ほとんどが安売りの本で本格的なものが少なく、あればそういった本はすぐに消えてゆく。ある時など本を手に取ろうとすると 別の人も同じ本を取ろうとして手がぶつかりそうになったこともある。この市は明け方の四時からだというが 古本はどうもそうではないらしい。朝七時に行ってもまだ並べている最中のとこが多い。

 古本はともかくとして 新刊はほとんど近くの書店で見られるので もっぱら自転車で通っている。といっても 距離は上海なら市の中心までにあたるほどだ。とにかく本が多い。上海ではなぜこんなに本が少ないのかと感じたが、ここでは本が多すぎるという感じがする。とくにどの分野も四五十代の世代が意欲的に本を出していて 数冊組みの大部なものが目立つ。そして中国と外国、または中国外の文化圏との交流史に関する本がかなり多い。もちろん日本関係のものもかなり多いが、韓国まで含めた三国の比較も多い。たとえば 『中日韓戯劇文化因縁研究』 という本などである。韓国に関するものもある。『中国―韓国・朝鮮文化交流史』 などは深くはないにせよ 新羅の留学生から現代の小説まで一通り何でも扱っているという感じのもので四冊組みである。そういえば日本でも一部翻訳の出た韋旭昇の 『韋旭昇文集』 全6冊も まだ新刊書店で在庫を見た。彼は韓国古典文学の専門ということになっているが、かなり前に東京外大で教材に使った 『朝鮮語実用語法』 の著者でもある。この本も文集に収録されている。この著者の回想を読んで面白かったのは、彼はもともと理科系志望だったが、進学先を選ぶのに夏の暑いときで 面倒で 友人にたのんでどこでもいいから出しておいてくれと願書をまかせたのが 結局 韓国語に入る結果になったという。これが彼の一生を決める事になってしまったのだと、どこかに書いてあったように思う。人間の一生なんて偶然決まることが多いということか。そうしてみると最初から自分で進路を決めて一筋にその道を進んで行った人というのは かなり敬服すべきなのかもしれないと思う。という言い方は良くないだろう。どんな道にせよ与えられた道を誠実に進んで行くことが大切だということなのか。道の道と可きは、常の道に非ず。

 その道の話しになるが、近くの本屋といっても 歩いて行くにはかなりになるので 相変わらず自転車を利用しているが、上海に比べるとかなり様子が違う。表通りは自動車も片道四車線で突っ走っているぐらいだから、自転車専用道路も幅が広く 自動車の二、三車線ほどでかなり余裕がある。逆行する車があっても問題にならない。というより ここの大通りは中央に分離帯があって途中で横切れないことが多いので どうしてもどちらかの専用路線を双方に向けて走るしかない。上海にくらべると皆走り方が整然としていて 左右にふらふらしているのはめったにない。居留証のことで久しぶりに上海にいったときも、まず感じたのはその無秩序ぶりだった。道路がやたらに曲がりくねっていて狭いうえ、皆てんでんばらばらに歩いている。高架道路も狭いし、その両側に建物がすぐ迫っている。これでは将来渋滞を解決するために道路を拡張することもできない。もちろんこれは上海と北京の都市の成立の歴史と背景が違うので 都市政策だけの問題ではないのかもしれないが、現在の段階では北京がはるかに計画的な発展の可能性をもっているように見える。中心の故宮をめぐって内側から環状道路が二環、三環となっていて 北京大は四環の外側だから 昔なら市内からはずれていた郊外である。いまでは五環道路も完成し 八環も工事中ということだ。上海のような複雑なところではこうした計画は不可能に思われる。ただ地下鉄を見ると、もしかすると行政的な交通政策にも問題があるのではないかと感じることがあった。今度上海に行ったときも地下鉄を利用したが、地下鉄のホームに下りても どちら側の列車に乗ればよいのか迷いそうだった。ホームに立って前の壁にある行く先を見ても 次に停まる駅名は書いてなく 終点の駅名だけである。電車に乗って窓から外を見ても 今停まっている駅名が見えない。対向車線の方をみると駅名と行く先が見えるが それは矢印が反対向きで しかも行く先は終点の駅名である。途中乗り換えたもう一つの地下鉄では 次の駅名が書かれてあったが、列車に乗ってみえるのは やはり対向車線のもので、自分の乗っている列車が次にとまる駅名が何かはわからない。こうしたことを見ると 上海のやり方はかなり問題があるという気がする。こういうところに神経が働かないやり方が地下鉄だけでないとすれば どういうことになるだろうか。どこかでかなり硬直した市の運営がなされている可能性があるかもしれない。もちろん北京は巨大国家の首都だけあって 財政的にも特別待遇をうけている可能性はある。それでも地下鉄などをみていると その運営にかなり柔軟な対応がとられているのではないかと感じる。私が比較的よく分かる唯一の場所である書店についていえば、北京ではこれだけの書店でかなり多様な本に接することができることを考えると、大昔は知らず 現在ではやはり文化の中心は北京ではないだろうか。なにが文化の担い手としての指標になりうるのかは断定しがたいとはいえ、すくなくとも多様な事柄にたいする受容の柔軟さが大きく影響しているのではないかと感じる。といっても私のように観察するのでは 教養のある文化水準の高いところしか見えないかもしれない。そういえば ここでは文化水準というのは学歴を意味している。もちろん ふつうの人がみなこうした教養人というわけではないだろう。市場などで出会う人は 上海に比べるとかなり田舎の人間という感じのすることが多い。私が米を買ってレジのところに並んでいると、前のおばちゃんが、あんたもお米を買ったのと言って話しかけてきた。といっても彼女の買ったのは本日の特売の米、私のは一番高い特別米で、とてもいっしょとは言えないのだが。また湯沸しのポットを買った。湯が沸くとスイッチの切れるもので かなりスタイルのよいものだ。やはりレジのところに並んでいると、後ろの女性が盛んにそれ何の壺と聞いてくる。お湯を沸かすのだと言っても通じない。横のおじさんも同じことを言ってくれているのに いつまでも聞いてくる。女性といえば、よく鼻の孔に指をつっこんでいる人をみかける。食糧品売り場の店員にもいた。一瞬買うのがためらわれる。男性だったら買うのをやめただろう。なぜだろう。それだけ空気が乾燥しているということだろうか。

 とりとめのないことばかり書いているが、まだまだ終わりそうにないが、国慶節あとの土日は平日で休みにならないので あまり無理がきかない。中途半端だが今回はひとまずここまでとします。