三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 IX 章

(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 IX 章)


第 IX 章 1950年代から1970年代の文学



深まる朝鮮戦争の傷跡とタブーの成立

 前回の続きということで、1970年代の終わり頃までの南を中心にした文学の話です。まず時代的な背景を概観してみましょう。
 1948年には南北それぞれの政府が成立し、続いて起こった1950年から1953年までの朝鮮戦争が分断を固定化しました。それまでは単に思想が違うということで済んでいたものが、同族の殺し合いにまで発展したわけです。特に戦争で撃ち合って殺されたというよりも住民同士の報復による殺し合いが多く、とても悲惨なものでした。
 この戦争の傷跡は大変深くて、南北の対立は感情的にも激化し、体制批判が利敵行為としてアメリカに対する批判とともにタブーとして触れられず、戦争時のことが韓国国内で扱われるようになるのは70年代になってからのことです。
 朝鮮戦争以後のタブーを作っていった李承晩大統領の独裁政権に対して、1960年4月19日に〈四月革命〉と呼ばれている学生を中心とするデモが起こり、李承晩政権が倒れます。そして1961年の5月16日に朴正煕の軍事クーデターが起こります。この〈五・一六クーデター〉がなぜ起こったかというと、タブーであった思想は残ったのですが、四月革命の学生デモによる動きが激しくなって、南北を統一しようということで学生たちが板門店に出かけるぐらいの動きになったことに対しての反発だったわけです。以後、この軍事政権を引き継ぐ独裁政権が1987年まで続きます。しかし、朴政権のように両班階層出身ではない人間が政権をとったことは、その善し悪しは別として、朝鮮の歴史では新しく画期的なことだったのは事実です。
 四月革命の理念は“自由・民主”で、民衆は自由を求め民主主義を求めたのですが、それは挫折します。それに対抗して、軍事クーデターを行った朴正煕政権は何を行っていったかと言うと、韓国の近代化を進めます。独裁政権側の理念である“自主・自助”は、自分たちの国で産業を興し、そして自分たちの中ですべてを解決するその体制を作らなければいけないという意味です。また〈セマウル運動〉、“セマウル”とは朝鮮語で“新しい村”ということですが、つまり新しい村づくり運動を起こします。全国に工業を興し、道路を引き、ダムを造り、かんがい施設を作るという事業を行うわけです。そして、近代化のためには外貨が必要ですし、産業を興さなければいけないので、それまで国交が断絶していた日本と国交を結びます。しかしこれは民族感情を非常に刺激したので、それが反政府デモとなって日韓会談反対のデモがたびたび起こりました。軍事政権に対するデモも盛んに行われますが、それを強圧的に抑えます。そして、1972年の〈十月維新〉で軍事独裁政権を確立し、1980年までそれが続くことになるのです。


戦争文学

描き方に浮き出る南北の違い

■朴鳳宇(パク・ポンウ)と林和(イム・ファ)の詩

朴鳳宇(パク・ポンウ/1934〜 )
出典:白鉄ほか編『現代韓国文学全集 18』新丘文化社、1968
 
 このような動乱の時代の文学としては、詩が政治に非常に密着していると言えます。朝鮮戦争を扱った詩はあまりないのですが、韓国で戦争後に国防部政訓局によって出された『戦時韓国文学選』に収録されています。詩篇(1955)と小説篇(1954)に分かれていて、小説は少ししかないのですが、詩のほうはとても分厚いものです。
 この中に朴鳳宇(パク・ポンウ/1934〜 )の「休戦線」(1956)と「鉄条網」(1955)という詩があります。朝鮮戦争の時には、朴鳳宇だけではなくほとんどの詩人が従軍記者として戦場に行かされています。その中で、朝鮮戦争のことを扱った詩としてこの人の詩が時々引かれるのですが、この「休戦線」は非常に抽象的で技巧的な詩になっています。最初の連と最後の連が同じで言葉がだらだらとつながっているのは、前に紹介したモダニズムの詩人・李箱のスタイルに似ているところがあります。つまり朴鳳宇は、戦後のモダニズムの詩人なのです。モダニズムの詩人がモダニズムの詩を書くということはそれはそれで構わないのですが、朝鮮戦争の現実、または戦争の雰囲気というものをうまく表しているかどうかというと、それにしては何か距離があるという感じがします。「鉄条網」は短いのですが、一層技巧的なところが出ていると思います。
資料32
朴憲永、林和の最終陳述

 南朝鮮労働党関係者に対する粛清裁判(林和1953年、および朴憲永1955年)の記録によると、最終陳述には次のような件が見えます。  (林和)「……私の家族も米帝の爆撃に死にました。私の家族を殺したのは米帝よりもまず自分自身です。私は恥じ知らずにも米国のやつが殺したと思ってましたが、私自身が肉親家族を殺した犯人です。……過去にも肉親を殺した犯人は容赦されませんでした。自分の国、自分の祖国、自分の肉親を殺したことは、たとえ誰が許したとしても私自身が容赦することが出来ません。……」  (朴憲永)「……この全ての不幸に対してと一切の犯罪行為に対しては自分に全面的に責任がある故に、検事総長が論告したところのように自分の罪悪の厳重性からみて死刑は当然です。そして、午前の公判審理で「新政府」と「新党」の組織陰謀とか武装暴動陰謀に対する直接的責任が自分にないように陳述した部分は単なる奇弁で間違いなので取り消します。……」
 
 
 北のほうは、林和の例によって長い長い詩を紹介します。林和について日本で普通目にすることができるのは松本清張の『北の詩人』だけでしたが、あの本は北の粛清裁判の記録に従ったもので、林和がいかに不正な人間であるかということになっています。ですが、彼の詩から受ける印象からはそれは間違っていると感じられます。もしかするとスパイの陰謀とみなされる行動が林和にあったのかもしれません。しかし事実の有無の詮索は無意味でしょう。政治的な事件での罪状などどうにでも理屈がつくからです。
 『お前はどこにいるのか』という詩集は、林和が逮捕され1953年に処刑される前の1951年に出ている薄っぺらい詩集です。この中の「愛する私の子よ」というフレーズが繰り返し出てくる詩集と同名の「お前はどこにいるのか」という詩は、1950年12月の日付のある長い長い詩です。
 朝鮮戦争の初めの頃、北がソウルを3カ月占領していたのですが、9月になって米軍が反撃をし、今度は平壌を3カ月占領するということが起こりました。それで、これは、林和が属している軍隊が追いつめられた時に南にとり残された娘を思うという形の詩になっています。肉親が眠れぬ思いで気づかっている「愛する私の子よ // お前はいま / どこにいるのだ」で終わるこの詩は、以前紹介した詩「私のお兄さんと火鉢」と作り方としてはほとんど同じで、彼の叙情的な技法は生きています。このことから、林和が北に行ってからも作品の作り方が変わらなかったことが分かります。
 1953年になってこの詩は批判されます。あまりにもブルジョア的で、知識人の感情だけであり、人民や労働者の感情を歌っていないということで批判されたのです。そして南朝鮮労働党関係者の粛清裁判にかけられ、彼も一緒に処刑されます。裁判記録を見ますと、彼は獄中であまりにも苦しかったので、自分の眼鏡で動脈を切って自殺をしようとしましたが果たせなくて、最後は銃殺されることになるわけです。しかし、彼の最終陳述を読む限り、彼が自分の弱さを自覚しながら、自分に与えられた断罪を自分自身の責任で引き受けようとしたことがうかがえるような気がします(資料32)
 朝鮮の場合は南北ともにそうですが、あの混乱の中でどちらかを支持することで犠牲になった人があまりにも多いわけです。ですから、こういう詩を書いた彼らの情熱を一体どのように評価して良いのかということについては非常に複雑です。例えば、林和がこういう詩を作ったことが果たして間違いだったのか、もし間違いであったとすれば彼の生涯は一体何であったか、ということを考えるととても複雑な感じに襲われます。
 しかし、先ほどの南の朴鳳宇の詩の書き方に比べれば、林和の詩は確かに違っています。林和のほうには自分の使命に打ち込んでいたということがうかがえるような気がします。やはり林和は自分のほうの側を、そしてその自分の見方を彼自身やはり心から信じていたのではないかという感じもします。この詩の中の「我々の首領」や「かたきども」という言い方は非常に浮いているのですが、戦争の中で自分の娘を思い、父としてここで歌うことができたことは、彼が自分が闘っていることを信じていたということの現れではないかと思います。だからこそ、彼の信じていたことが虚しいものであったことを考えるととても複雑な感じになるのだと思います。
朝鮮戦争を描いた小説「驟雨」の単行本表紙
出典:廉想渉『驟雨』乙酉文化社、1954
 
韓雪野(ハン・ソリヤ/1900〜?)、「大同江」執筆の頃
出典:韓雪野(李殷直訳)『黄昏』朝鮮文化社、1960
 

■廉想渉(ヨン・サンソプ)と韓雪野(ハン・ソリヤ)の《戦争小説》

 次に、朝鮮戦争そのものを描いた《戦争小説》を取り上げます。最近よく引かれる小説は廉想渉の「驟雨」で、長編です。これは1952年から53年に書かれています。内容はソウルが北の軍隊に占領されていた3カ月間のことを描いたものですが、実際には戦争の話がほとんど出てきません。要するに、遊ぶ人間は相変わらず恋愛の話をしていたりという話なのです。ですから、先ほどの朴鳳宇の詩と同じように戦争に対しての距離感が感じられます。廉想渉は政治などを描写するということはせずに、この朝鮮戦争の最中にも相変わらず恋愛をしたり、道楽をしたり、不正腐敗があったりというような感じのものを描いているわけです。その点ではかなりなものなのかも知れませんが、戦争そのものとは非常に離れています。
 それとちょうど対照的な作品が韓雪野(ハン・ソリヤ/1900〜?)の「大同江(テドンガン)」で、ほとんど同じ頃の1952年から54年にかけて第1部、第2部、第3部と出ていて、かなり長い小説です。こちらは、今度は平壌が3カ月間韓国とアメリカの軍隊に占領された時の様子を書いています。労働者として平壌の印刷工場で働いていた女の人が、占領軍に働かされて新聞を出さなければいけなくなるのですが、例えば印刷機を壊したり、新聞の活字を印刷寸前に取り替えて李承晩の悪口を印刷するように工夫するなど、南の占領下にあって最後まで抵抗を続けたところを描いた小説になっています。
 こうして見ると、先ほどの詩の場合も同じですが、南の文学者にとっては戦争というものが人ごとのように見えていたのかどうかということが気になるわけです。北の人にとっては切実なものとして描かなければいけなかったのか、そのあたりがよく分かりませんが、少なくとも林和の先ほどの詩では自分のものとして信じていたような感じがしました。南と北での戦争に対する感じ方が違っていたということはありそうなことです。つまり、南の中で李承晩政権の評判が悪かったので、たとえ北が敵だということになったとしても、もしかしたらすんなりと戦う意欲が沸かなかった可能性はあるのです。それは、現代になって私がこのようなところで勝手なことを言ってはいけないかもしれませんが、少なくともこの南北の長編と先ほどの詩での話とはよく対応しています。
 短編では、南のもので朴榮濬(パク・ヨンジュン/1911〜77)の「龍草島近海」(1953)や金東里(キム・ドンニ/1913〜95)の「興南撤収」(1955)があります。


1950年代の文学

失意と閉塞感を反映した小説群

 朝鮮戦争後の韓国では、ほとんど廃虚になったソウルが復旧しない状態がずっと続き、南北の対立とタブーが表面化してきます。小説のトーンは暗くて希望がないものです。そしてあるものは抽象的です。

■孫昌渉(ソン・チャンソプ )

孫昌渉(ソン・チャンソプ/1922〜 )、1964年
出典:康信哉ほか編『正統韓国文学体系 (20)』語文閣、1986
 
 その中で、韓国でも取り上げる人が非常に多いのが、孫昌渉(ソン・チャンソプ/1922〜 )です。この人は「雨の降る日」(1953)、「血書」、「未解決の章」(いずれも1955)、「剰余人間」(1958)などを書いた小説家ですが、もう今は小説を書くのを辞めて、現在日本に暮らしているようです。孫昌渉の小説は、雰囲気が日本人にも親しみやすいようです。ストーリーには得体の知れない人物が出てくるのですが、何もせずに戦争跡のあばら屋に住んでいる若い少年少女や、荒廃した男女の生活をしている人間、それからたくましく生きる人間など、どこか普通の人とは違った異常な感じのする人間を描きながら、暗くて出口のないその当時を描写しています。この作家が活躍したその頃は評判が悪かったようで、韓国的に言えば、道徳的に退廃している作家だったのでしょう。私が見る限りでは、この作家は正統派の文学の勉強をした人だという気がします。
 例えば「剰余人間」という小説があります。これは全くどうでもいいような人間ということです。登場人物の1人は医者で、あとは何もすることのない人間が2人います。1人は生活のためにどこかへ働きに行くといっても仕事がありません。もう1人はいつも新聞を見ては政治の話をするのが好きです。つまり3人のうち1人は医者という仕事があるのですが、残りの2人は何もすることがなくて、いつも医者のところへ来ては、ただぶらぶらしているのです。しかしこのうちの1人の仕事がない男は、奥さんが病気になって働かなければいけなくなって、どこかの工事現場で働きます。ところが、そこで大怪我をして、結局絶望が深まるだけという話です。
 3人の何もすることのない人間が出てきて、1人は仕事を持っていて、残りの2人がぶらぶらしているという設定と、最後の非常に暗い感じは、実は日本の統治時代一番の大物だった李泰俊の有名な短編小説「福徳房」(1937)そのものです。「剰余人間」はこの「福徳房」と全く同じ構造ですが、この時代に李泰俊の本はタブーだったはずです。しかし、孫昌渉のほかの小説を見ても、李泰俊などの解放前の小説を読んでいたらしい感じがしますから、やはり正統派の小説家であるわけです。
 また『落書族』(1959)は植民地時代が舞台で、ぐれた少年が朝鮮を追われて日本に来てぶらぶらしている時に、いつの間にか民族運動家として祭り上げられ、その間に日本人の女性を犯して逃げるなどという話です。一見捨てばちのようでありながらやはり真面目な小説です。孫昌渉はデカダンでどうでも良いような書き方をしたのではなくて、非常に真面目な小説の書き方をした人で、50年代の代表的な小説家ということになります。
李範宣(イ・ボムソン/1920〜82)、1965年
出典:白鉄ほか編『現代韓国文学全集 6』新丘文化社、1968
 
金声翰(キム・ソンハン/1919〜 )
出典:康信哉ほか編『正統韓国文学体系 (17)』語文閣、1986
 

■李範宣(イ・ボムソン)

 50年代の小説として今でも有名なのは、李範宣(イ・ボムソン/1920〜82)の「誤発弾」(1959)で韓国の教科書にも載っています。これは北からソウルに来た絶望的な避難民一家の話で、自分の年取った母親が北に帰りたくて半分気が狂いかけていて、「行こう、行こう」と口癖のように叫ぶわけです。北から来たけれども全く絶望的で、帰りたいけれども帰ることはできないという出口のない様子を描いた小説です。その「行こう」というせりふで有名な作品です。

■金声翰(キム・ソンハン)

 『土地』で有名な朴景利もこの時代から書き始めます。それから、張龍鶴(チャン・ヨンハク/1921〜 )や金声翰(キム・ソンハン/1919〜 )は、当時実存主義の作家だと言われていたのですが、特に前者は読みにくくて抽象的・観念的な演説をするような書き方をする小説家です。この時代は正面切って世の中のことを書くことができなかったということで、うっ屈した形の作品となったのかも知れません。
 その中で、例えば金声翰の小説「かえる」(1955)は大変面白いと思います。この作品は、とても寓話的な書き方です。「かえる」は、王様が欲しいと鳴くかえるにゼウスの神様が丸太を投げるというイソップの寓話をそのまま使った小説です。イソップのほうでは最後に水鳥を派遣すると、その王様は全部カエルを食べてしまったという話になるのですが、「かえる」では、ゼウスの神様にせがんでも王様をくれず、最後にゼウスの神様が「大体おれだって幻想なんだ」と言って、何か訳の分からない抽象的な終わり方をするのです。果たして寓話が効いているのかどうかもよく分からない形ですが、それでもこの時代の観念的な小説家が多い中では、一見童話的な形での面白さがあるのではないかと思います。
 全体としては、孫昌渉も含めて、全部暗い出口のない時代の作品です。しかし孫昌渉以外のほとんどの作品は、出口のなさが抽象的に空回りをしている感じが残ります。


1960年代の文学

 50年代はこれぐらいにして60年代に移ります。60年代になってもまだ混乱状態は続き、経済的な復興もありませんでしたから、引き続き暗い時代でした。反政府と抑える政府側との力関係は複雑で、そういう中で四月革命が起こったのですが、革命の理念であった自由・民主の精神は挫折してしまうわけです。しかし、文学としての新しい動きはこの1960年4月から起こってきます。

詩に歌う四月革命の挫折

■金洙暎(キム・スヨン)

金洙暎(キム・スヨン/1921〜68)
出典:金洙暎『詩よ、唾を吐け』民音社、1975
 
 その挫折の中で一体何を考えていたかということを表すのでよく引かれるのが、金洙暎(キム・スヨン/1921〜68)の詩です。
青い空を制圧する / ひばりが自由だったと / うらやんだ / ある詩人の言葉は修正せねばならぬ / 自由のために / 飛翔してみたことのある / 人なら分かってるさ / ひばりが / 何を見て / 歌うのかを / どうして自由には / 血の匂いが混じっているのかを / 革命は / なぜ孤独なものなのかを / 革命は / なぜ孤独でなければならぬのかを
 四月革命が結局成功せずに挫折したその思いは、「青い空を」(1960)と題されたこの詩からある程度読み取れると思います。希望に燃えて明るく陽気に考えられるものではなくて、非常にうっ屈したその精神・心がここに出ています。デモを行ってそこで何かを勝ち取るというところではなく、戦いが孤独であることも既に60年代の彼の詩の中には出ています。
 以前に紹介した近代詩は現在も愛唱されているものですが、解放後の詩というのは有名なものは多いのですが、必ずしも愛唱されているとは限らない、むしろ教科書に出ているので知られている詩なのです。次の金洙暎の「草」(1968)も80年代に有名になって、現在韓国の国語の教科書で一番たくさん使われている詩です。
草が横たわる / 雨を駆ってくる東風になびき / 草は横たわり / ついに泣いた / 日が曇りさらに泣いてから / また横たわった//草が横たわる / 風よりももっと早く横たわる / 風よりももっと早く泣き / 風よりも先に起き上がる
 ここでの「草」とは、民衆のことであると解釈されているようです。民衆は何か状況が悪くなったり天気が悪くなれば、抵抗せずにそのまま横たわっているけれども、状況が良くなればまたひと足早く起き上がるという民衆のずるさと言えばずるさであり、たくましさと言えばたくましさですが、そういう民衆の弱くてたくましい精神を歌っています。金洙暎は、少しひねくれて、うっ屈していると言えるかもしれません。この詩は民衆に結び付けているので、現在の政権の中ではかえって表に出せる詩ということで教科書にたくさん載っているのだと思いますが、詩としてそれほど優れているかどうかということは疑問です。

■申東曄(シン・ドンヨプ)

申東曄(シン・ドンヨプ/1930〜1969)
出典:申東曄『申東曄 詩選集』創作と批評社、1979
 
 同じように、60年代を象徴する詩人としてよく引かれるのが、申東曄(シン・ドンヨプ/1930〜69)です。この人も金洙暎もモダニズムの詩人ですが、申東曄のほうが少しモダニズムでしかも土俗的ということで、若干抵抗の詩人と見られていたかもしれません。そのためか、この人の詩集は80年代になるまでずっと発禁でした。
殻は去れ / 四月も中身だけ残って / 殻は去れ // 殻は去れ。/ 東学の年コムナル(熊津)の、その喚声だけ生きて / 殻は去れ。// そうして、ふたたび殻は去れ。/ ここでは、二つの胸とその所まで差し出した / アサダル(阿斯達)アサニョ(阿斯女)が / 中立の婚礼場の前に立って / 恥ずかしさを輝かせて / 向かい合って礼をするのだから // 殻は去れ / ハルラサン(漢拏山)からペクトゥサン(白頭山)まで / 香しい土の胸のみ残って / その、全ての金物は去れ。
 これは、申東曄の「殻は去れ」(1967)です。「四月」は四月革命のことで、本当は中身が残らなければいけないのに中身ではないものが残っていると言っています。そして「東学の年」は、以前話した1894年の東学農民戦争の精神ということで、80年代まで残る民族主義的な抵抗運動の象徴的な起源の芽生えがここに出ていることになります。
 申東曄の詩の他面としては、70年代詩人らがよく取り上げた内容を「鍾路五街」(1967)で既に謳っており、それが労働運動や民衆運動などの象徴的な詩の萌芽になっているのかもしれません。60年代から工業化が進む中で、田舎がどんどん荒廃してみんなソウルに出てきます。そしてソウルで一番底辺の労働者になるのですが、彼は「鍾路五街」の詩でそういう人達を描写しているのです。

当時の若者群像を描いた作家たち

崔仁勲(チェ・イヌン/1936〜 )、1966年
出典:白鉄ほか編『現代韓国文学全集 16』新丘文化社、1968
 

■崔仁勲(チェ・イヌン)

 四月革命後の小説では真先に崔仁勲(チェ・イヌン/1936〜 )の「広場」が挙げられます。『夜明け』という雑誌の1960年10月号に発表し、1961年に初めて本になります。改訂版を出しますが、その後また直しています。日本語でも2回翻訳されていて、ひとつは改訂版で訳したもの、2番目の訳はそれに著者がさらに書き込みをして訳者に渡したもので、内容が少し違います。
 「広場」の主人公は南にいた若者ですが、父親がパルチザンとして北のイデオロギーを持って北に行ったので、南で辛い思いをしていられなくなり、北に逃げます。そして北の軍隊として南に来て、昔南で辛い目に遭った仕返しに自分の友達などを虐待するというエピソードも出てきます。しかし、最後に捕虜となり南北の捕虜交換の時に主人公は南も北も選ばず、第三国に出るためにタゴール号という船に乗ってインドに渡る途中で海に飛び込んで自殺をするというのが大筋です。
 ですからこの小説は、北も南も選べない60年代当時の若者の考えを象徴していると見ることができます。作者が書き換えた細かいところとしては、最後に船に乗って行く時にいつまでもついて来るカモメを自分の愛人として象徴していたのが、改訂版ではさらに自分と愛人の間に生まれた娘として象徴させるところなどがあります。しかし全体としての筋は、北は広場だけ、南は密室だけということで、どちらも選べないことを表したということになります。ただこれは非常に観念的な小説で、現在韓国ではこの小説に対しては批判的な見方もありますが、観念性も含めて四月革命をよく象徴する小説であることは確かです。
金承nq(キム・スンオク/1941〜 )
出典:金承nq『ソウル 1964年冬』創又社、1966
 
南廷賢(ナム・ジョンヒョン/1933〜 )
出典:南廷賢『ソウルを生きる孤独と喜悦』中央出版公社、1969
 

■金承nq(キム・スンオク)

 他に60年代の新しさを代表する小説家としては金承nq(キム・スンオク/1941〜 )で、「幻想手帖」(1962)や「生命演習」(1963)、「霧津(ムジン)紀行」(1964)を書いています。60年代から出てきた若者、つまり軽快で道徳的なものにとらわれないあっけらかんとした虫の良い主人公が、韓国で初めて登場したわけです。「霧津紀行」の場合、財閥の女性と結婚して重役になろうとする主人公が、以前自分の住んでいたところに旅行し、そこで出会った女の先生を犯し、そのまま放って帰って来るというあっけらかんとした主人公を描いています。これは非常に新鮮であったと言う人がいるのですが、私が見る限りはそういう新さがあったにしても文体として危なっかしく、逆に弱々しいところも持っていたと思います。現在の韓国でもそのように批判されるところがあります。しかし、すがすがしさがあって、今でも小説を読む人に好まれるようです。彼自身はやがてほとんど小説を書けなくなって、現在小説家としては活躍していません。

■南廷賢(ナム・ジョンヒョン)

 また、南廷賢(ナム・ジョンヒョン/1933〜 )が1965年に「糞地」を発表しています。この人は鋭く繊細な感じの人だったようで、1965年の発禁事件で作品が書けなくなって非常に惜しいと思います。『お前は何だ?』(1965)という小説集に本当は「糞地」が載ることになっていました。ところが、昔日本でもやっていたように検閲で削除されて「糞地」のところは破られてしまいました。それで、すべての作品が解禁された87年になって初めて「糞地」は本で読めるようになったわけで、日本でも翻訳が出ています。
 主人公は北から来た避難民で、母親は苦労したあと死に、妹は米軍の娼婦になります。しかし、主人公は働くところがなかったので米軍で働くことになり、それで軍人の奥さんを南山に連れ出して強姦をします。その事件で米軍隊が出て南山を包囲し、自分は逃げられなくなって、米軍の砲撃によって爆破される寸前に書いた手記という形になっています。非常にわいせつな言葉を使いながら書いてあるわけですが、昔の小説に出てくる仁術使いの洪吉童(ホン・ギルドン)の子孫の洪萬吉(ホン・マンギル)が語り手という設定の面白い小説です。
 これは時代のタブーに挑戦した小説と見られますが、実は最初韓国の政府も別に大したこととは思っていなかったらしいのです。ところが、北のほうでこれを新聞か雑誌に掲載してしまったので、それであわてて利敵行為としてみなし、彼を捕まえたわけです。彼は才能があったと思うのですが、この逮捕のあと何かあるたびに予防拘禁で獄に出たり入ったりしていましたので、小説は全く書けなくなりました。私にとってこの小説が印象的だったのは、日本でちょうど深沢七郎の「風流夢譚」の事件の記憶が残っていた頃だったからです。現在「糞地」は解禁になっていますが、日本のほうは永久に解禁されないようですから、結果は違ってしまいました。「糞地」は真面目なのですが、わいせつで、いろいろな部分で不謹慎な書き方をしているので、ユーモア小説のようなところがあります。


1970年代の文学

民主主義・民族主義の模索と多様化の芽生え

 四月革命での挫折と希望、その2つを合わせたものが実を結ぶのが70年です。70年代は政治としては厳しい時代になるのですが、文学としては、文学の中身およびその文体、すべてが充実し、文学の水準が非常に高まった時期です。また、日本で南北両方の文学が一番多く紹介されたのもこの時代です。
 70年代は軍事独裁政権下の表面的には静かな時代で、デモがかなり厳しく規制されていました。ただ、民主主義に対する模索は続き、民族主義が高まってきました。これは現在でも続いている動きで、反体制であれ体制側であれ、どちらについても朝鮮独特の民族主義が非常に主張されることになりました。その動きの地盤ができたのは70年代だったのです。
 また、朝鮮戦争後に生まれたタブーは南北ともに存在していたわけですが、それを徐々に回復する動きも南では出てきました。文学の中でタブーであったものを取り上げるということが少しずつ行われるようになったのです。
 100年前、つまり近代の開化期に、もし植民地になることなく朝鮮の文学が進んでいたらどうなっていただろうかと考えた時、やはり植民地時代や解放直後の混乱期、および南北の分断の中でのタブーがあるところではうまくいかなかったわけですから、このタブーに挑戦し始めた70年代になって、ようやく初めて本来の文学に対する姿が少し見えるようになってきたのではないかというのが私の感想です。

■金芝河(キム・ジハ)

 1970年代の詩人としては、何と言っても、以前にも紹介した金芝河でしょう。彼は長いパンソリ調の大胆な詩ばかりを書いていたわけではありません。「五賊」や「蜚語」のほかに「1974年1月」(1975)と言う詩を書いています。金芝河は体制に抵抗していた詩人ですが、やはり自分の心中での恐れなどそういう悩みを持っていたことがこの詩の中に出てきます。それから「燃える渇きで」(1974)は大した詩ではないと思いますが、80年代に非常に有名になりました。この詩にメロディーがつけられて韓国でデモをの時に必ず歌う詩になったからです。「燃える渇きで / 燃える渇きで / 民主主義よ万歳」と歌うわけです。この詩を全部歌っているわけではなく、またいくつかのバリエーションがあります。しかし、詩の一番最後の「お前の名を人知れず書く。/ 燃える渇きで / 燃える渇きで / 民主主義よ万歳」というところは共通しているようです。80年代の激しい反政府運動の中で、風刺の長い詩とは違ったこういう詩が彼の名前とともに有名になったのですが、そのわりには彼自身は孤独だったのではないかという感じもします。

■申庚林(シン・ギョンニム)

申庚林(シン・ギョンニム/1935〜 )
出典:申庚林『シッキムクッ』ナナム、1987
 
 もう1人は、現在日本でも翻訳されている申庚林(シン・ギョンニム/1935〜 )です。申庚林は韓国の農村での民衆の姿を描く詩人として70年代に登場し、今でも活躍している年配の詩人です。彼の詩集『農舞』(1973)の中の「市のあと」という詩は、70年代の成果とも言われます。田舎で開かれる市が終わると、テントだけを残してみんな近くの飲み屋へ行き雑談をしたりする風景を描いており、残念ながら翻訳するとあまり味が出ないのですが、次のような詩です。
出来損ないのやつらは互いに顔見るだけでも興がわく / 床屋の前に立ってマクワウリを切って / 屋台に座ってマッコルリをひっかけると / みんな等し並みに友達みたいな顔々 / 湖南(注:全羅南道のこと)の日照りの話、組合の借金の話 / 薬売りのギターの音に足踏みしてみれば / なぜこんなにしきりにソウルが恋しくなるんだ / どこかに入って花札でもやらかすか / ふところはたいて女の家でも行くか / 学校の庭に集まって焼酎にするめを裂いて / いつの間にか長い夏の日も暮れ / コムシン(注:ゴムの靴で、イメージとしては田舎者)一足またはイシモチ一匹下げて / 月が明るい馬車道をとぼとぼゆく市のあと
 申東曄が「鍾路五街」で田舎からソウルに出て来た労働者を描いていましたが、それを田舎のほうから見たような詩です。70年代の社会状況の一端が出ていると思います。

■崔仁浩(チェ・イノ)

崔仁浩(チェ・イノ/1945〜 )と自筆サイン
出典:崔仁浩『第三世代韓国文学 (7)』三省出版社、1983
 
 70年代の小説は大変たくさんあり、80年代から現在に至る萌芽が全部この時期に出揃ったという感じです。中でも『他人の部屋』(1973)、『星たちの故郷』(1972)、『馬鹿たちの行進』(1975)を書いた崔仁浩(チェ・イノ/1945〜 )は、70年代を象徴する作家だと思います。ただ、韓国では大衆小説ということでほとんど文学史には現れません。
 『馬鹿たちの行進』は、日本では『ソウルの華麗なる憂鬱』(図書刊行会、1977)という題名で翻訳が出ています。これは、韓国の社会が本当に変わったと感じさせる面白い小説でした。軽快でユーモアが定着してきた韓国の雰囲気をよく表していると思います。主人公はいつも格好よくラケットと『かもめのジョナサン』を持って歩いています。しかしテニスはできないし、『かもめのジョナサン』は読んだこともないのですが、それでも格好つけて歩くわけです。その男の子と恋愛をしている女の子が、好きなのか好きでないのかよく分からないような感じでいつまでも付き合っている、その若い男女のやり取りは非常にほほえましい感じです。映画にもなりましたが全然中身が違いますから何とも言えませんが、私は小説のほうがずっと良いと思います。韓国は政治で見ると厳しい時代ですし、それを直接に訴えたものでは先ほどの詩になるわけです。しかし、この崔仁浩の小説を見ると、そういう日々の中でも生活を楽しむという雰囲気が出ており、生活が本当に変わってきたという、政治とは別の韓国の一面がここに表れています。

■朴婉緒(パク・ワンソ)

朴婉緒(パク・ワンソ/1931〜 )
出典:金治洙ほか編『我らの時代 我らの作家(別冊)』東亜出版社、1987
 
 それからもう1人、政治も少しかかわっていますが、それでもより生活に密着した作家では、朴婉緒(パク・ワンソ/1931〜 )が挙げられます。この人は現在韓国では非常に評価が上がってきましたが、私が読み始めた70年代では文学研究者は誰も評価していなかったというのが現実です。つまり、この人も大衆小説の作家だという扱いだったのです。
 「空港で会った人」(1978)には、韓国の米軍のPXで働いて、そこの品物を横流ししてあっけらかんとして過ごしているたくましいおばさんの姿が描かれています。「小さな体験記」(1976)は、商売をしていて捕まっただんなさんに面会に行った奥さんを主人公に、警察ではいかに賄賂を使わなければいけないかなどということを書いた小説です。つまり、生活の中に社会の腐敗が入っているところを着実によく描いているのが朴婉緒ではないかと思います。
 朴婉緒は37歳と遅く登場した人で、1970年の「裸木」という長編が一番最初の作品です。これは雑誌『女性東亜』の懸賞作品で、彼女が娘時代にPXで働いていた時に知り合った、米軍の似顔絵を描いていた朴寿根(パク・スグン)という実在の画家との交流を軸にしながら、その時代のことを描いた小説です。技巧としてはそれほどではないのですが、朴婉緒がどういう青春時代を過ごしたかということが分かる小説です。子育ても終わってから出発した作家ですが、70年代から80年代にかけての彼女の作品は大変多く、短編は結構良いのではないかと思います。
李清俊(イ・チョンジュン/1939〜 )と自筆サイン
出典:李清俊『第三世代韓国文学 (1)』三省出版社、1983
 
尹興吉(ユン・フンギル/1942〜 )
出典:金治洙ほか編『我らの時代 我らの作家(別冊)』東亜出版社、1987
 

■李清俊(イ・チョンジュン)

 他に70年代の作家として評価されている作家に、李清俊(イ・チョンジュン/1939〜 )、反対制で有名になった黄皙暎、『うちの村』の李文求、趙世煕(チョ・セヒ/1942〜 )、尹興吉(ユン・フンギル/1942〜 )らがいます。
 李清俊は全羅南道出身の作家ですが、文学を志す人には神様みたいな人らしいです。『噂の壁』(1971)は韓国の50年代の政治のタブーをよく示しています。ある村に、夜パルチザンが来ると昼に今度は韓国の軍隊が来る、という混乱期の状況を題材にしながら小説を書く気が狂ったある作家の話ですが、そのジレンマの話がとても象徴的です。李清俊はそれを「懐中電灯の思想」と言っています。夜いきなり誰かがやって来て戸を開け、懐中電灯を自分のほうに向けながら「お前はどっちの味方だ」と訊問しますが、懐中電灯を突きつけている人が一体どちら側の人間か分からないので答えようがないわけです。しかし、答えなければ敵だということで殺されるし、判断を誤って答え間違えても殺されるというそういう状況です。1950年前後の韓国の話としても大変深刻ですが、李清俊はそれを自分が営む文学の立場としても描いているようです。つまり、小説を書くとは得体の知れぬ読者の前で懐中電灯を突きつけられているようなものであるというわけです。

連作小説の人気

 
趙世煕(チョ・セヒ/1942〜 )と彼の著書表紙
出典:趙世煕『こびとが打ち上げた小さなボール』文学と知性社、1978
 趙世煕の『こびとが打ち上げた小さなボール』(1977)は、技巧的にも70年代最高の成果とみなして良いと思います。李文求、趙世煕、それから『九足の靴で残った男』(1977)の尹興吉の3人とも日本に紹介されていますが、これらの作品が全部連作ということはやはり注目して良いと思います。連作というのは、ある題材をめぐって短編小説を書き連らねてそれを1冊にまとめるということです。なぜこの時代に連作かというと、80年代に長編小説である大河小説がどんどん出てくるのですが、短編小説の時代から長編小説の時代へ移る間のひとつの形態が連作小説だったと考えられます。この他にも連作小説を書いた人はたくさんいます。韓国の現実というものをもっと大きくとらえようとする動きが、この70年代から小説の分野でも動き始めたということでしょう。
 この3人の中で、李文求はパンソリにつながるユーモアを盛り込んだ『うちの村』の小説家ということで前に紹介しました。彼は独特の文体で短編も書きます。光州事件の軍事裁判で捕まった頃、刑務所に入っていても警官の中にファンがいたようで、部長がやって来て「お前の小説が好きだから、お前の小説集を40冊買って全部部下に配って読ませているところだ」と言ったそうです。韓国というところは、反体制の人が警察の人にも好かれるという非常に面白い風土があるわけです。反体制側と体制側の人間がいつの間にか通じてしまうところが興味深いというか妙なところがあると思います。