(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 VIII 章)


第 VIII 章 混乱期の文学

− 解放から分断国家成立まで


文学運動の分裂

 第1回でもお話したように、1945年8月15日を境に解放、即独立とはならず、アメリカとソ連による占領地域の暫定境界線、つまり38度線が朝鮮を南北に分断し、1948年に南北で政府が樹立するまで混乱状態となります。南北の分断による社会的混乱は文学にも大きく影響しましたが、こういう時代には文学の存在がかすんでしまうほど、社会的・政治的には大変な激動期だったと思います。
 社会的には、まず8月15日に呂運亨(ヨ・ウニョン/1886〜1947)を委員長とする朝鮮建国準備委員会が組織され、翌16日に彼は「われわれは独立した。みんなの協力をお願いする」というような演説をしています。副委員長の安在鴻(アン・ジェホン/1891〜1965)もラジオ放送で演説をしています。8月19日から、その頃唯一の朝鮮語の新聞だった『毎日新報』がアメリカ軍が上陸するまで発行停止となっています。

表面化する思想の対立

 文学のほうでは、8月16日に早速《朝鮮文学建設本部》が動き始めています。この中心になった人は、林和、金南天、李泰俊といった日本に極端な協力をしなかった人たちで、彼らが《朝鮮文化建設中央協議会》を結成することになります。一方、9月には、日本の統治時代のプロレタリア文学の中心だと思っていた人たちが《朝鮮プロレタリア文学同盟》、《朝鮮プロレタリア芸術同盟》といった団体を次々と作りますが、それによって昔からあった思想の対立が解放後に表に現われてきたということになりました。つまり、朝鮮プロレタリア文学同盟や芸術同盟を作った人たちから見ると、林和などの作った朝鮮文学建設本部はあまり承服できないものであると思われたようです。プロレタリア芸術同盟の人たちは大体が北にいた人たちで、中心となったのは韓雪野、李箕永ですが、あまり表立った活動はしていません。しかし彼らから見ると、日本の支配の中心だったソウルで活動していた人たちは全部偽物であると思っていたようです。このように、解放直後の8月16日から9月にかけては、昔の抵抗運動の文学を担っていた人たちが2つに分かれて動き始めたわけです。
 ところがこれではまずいということで、その両方がソウルに集まって、12月13日に《朝鮮文学同盟》を作ります。そして翌46年2月には「朝鮮文学者大会」をソウルで開催して、《朝鮮文学家同盟》を発足させたのです。ですから、朝鮮文学家同盟のメンバーには幅広く左翼系の人間が多く参加していたわけですが、李泰俊や鄭芝溶という民族文学の人たちもほとんどみんなここに入っていました。ただやはりしこりは残って、プロレタリア芸術同盟の人間はここに参加しないで、北にとどまったままでした。
 この朝鮮文学家同盟に参加した人たちのうちで南にいられなくなった人は、1946年から47年の間にほとんど北に渡りますが、結局あとになって大部分がそこで粛清されることになります。これは、解放直後からの南北の分裂が影響を与えているということです。つまり北から見ますと、ソウルは日本文化の影響が一番強いところですから、そこで活躍していた人間は本来の文学を担う者ではないということで、林和などは非常に批判されています。その対立は1950年ぐらいまで残っています。

政治に影響された文学運動

 政治的な面では、朴憲永(パク・ホニョン/1900〜55)が解放直後にソウル中心に再建された朝鮮共産党の主導権を握って活動を始めます。それに対してアメリカを後ろ楯にした李承晩がそれをどんどん抑えていくということで、1946年頃から共産党に近い人間はほとんど殺されていくか捕まるか逃げるかというようにして、ほぼ絶滅をしていくわけです。こういった流れに沿って林和や李泰俊らは動いており、文学家同盟の中心になった人たちの立場は朴憲永の共産党の政策に沿うようなものです。朴憲永が1945年の8月にいち早く出した〈8月テーゼ〉は、朝鮮の革命はどうあるべきかということを書いたもので、「朝鮮の革命が目指すのはプロレタリア革命だが、現段階ではそこまでいっていないから、まずはブルジョア民主主義革命を行うのが先である」というものでした。
 それに従って林和も「自分たちの文学は民族文学でなければいけない」という言い方をしています。しかし、北と南で民族文学のとらえ方がだいぶ違っています。例えば、北の人たちも民族文学と言うのですが、それは進歩的な民主主義的な民族文学ということです。南では、市民主義の市民社会ということに根ざした民族文学になります。要するに進歩的という言葉には、非常に微妙ですが、共産主義の要素が入っているということになって、差は歴然としています。それで、ひとつの同盟に加わっていてもお互いに対立は解けなかったという気がします。
 1945年の11月には金九を中心とした臨時政府の一行が帰って来ます。金九は、右翼と言えば右翼であるし、民族主義者と言えば民族主義者で、それと共産党との間にいろいろな人たちが入ってきて盛んに複雑な運動を始める混乱期となります。それに応じてさまざまな文学作品がたくさん出るのですが、混乱期ですからあまり水準の高いものが出たとは言えません。
趙基天(チョ・ギチョン/1913〜51)
出典:木村誠ほか編『朝鮮人物事典』大和書房、1995
 
 北では、金日成が初期の頃から芸術や文学に対して非常に関心を示し、「文化と芸術は人民のためのものでなければならない」と言って、頻繁に文学者や芸術家を集めて指示をします。詩では趙基天(チョ・ギチョン/1913〜51)による「豆満江」(1946)、そして「白頭山(ペクトゥサン)」(1947)という長い詩が有名です。この「白頭山」という詩は抵抗運動、つまりパルチザン闘争を描いたものです。趙基天はソ連にいた朝鮮族で、ソ連軍と共に北朝鮮に来た軍人ですが、こういう詩を書いたということであっと言う間に有名になりました。
 いずれにしても解放後の朝鮮は大変な混乱期でした。朝鮮の場合は日本の植民地になる前が李朝時代ですから、解放されたといっても戻るべき近代国家がないわけです。このため、文学はもちろん、政治も含めてすべて新しく作らなければいけないことになり、しかもこの分断の中でまだ完全な独立が得られていなかったわけです。どういう国家を、どういう社会を作るかということについては未知数で、朝鮮民族にとっては全く前例のない課題を与えられたわけで、簡単に南北のどちらが正しかったとは言えません。事実としては、日本が負けたにせよ、多くの人が行った独立運動は成功しませんでした。膨大な人間が、さらにこの解放後の状況下で犠牲になっていったわけです。その後南北の文壇の中で活躍していた人たちがどのように最期を終えたかを考えると、非常に複雑な感じにならざるを得ません。


文学のテーマとなった解放の意義

咸錫憲(ハム・ソッコン/1901〜89)
出典:咸錫憲『咸錫憲全集 1』ハンギル社、1983
 

「盗人のようにやって来た解放だ」

 その混乱期の文学ですが、朝鮮にとって解放とは一体何だったろうかということをテーマにしているものを紹介します。その前に咸錫憲(ハム・ソッコン/1901〜89)が解放後の1950年に出した『聖書的立場で見た朝鮮歴史』の記述を取り上げたいと思います。この本は現在は『意味から見た韓国歴史』、または『志しから見た韓国歴史』となっていて、日本語の訳は『苦難の韓国民衆史』(新教出版社、1980)の名で出ています。彼は無教会主義の立場で抵抗をしていた人なのですが、この本の中には「この解放というのは、盗人のようにやって来た解放だ」と書いてあります。『新約聖書』を読んでいる人にはもちろん分かるのですが、つまり、心の準備がなかった人間にとっては、解放というものはいきなりやって来たものだったと言っているわけです。本当は、解放を迎えるために絶えず心の準備をしていなければいけなかったのに、実際に心の準備をした人はいなかったわけです。ですから咸錫憲は、自分たちはそのことを考えなくてはいけないし、解放は自分たちが闘ってきた結果だとは言えないのだと述べているのです。

 さて、解放直後に書かれた小説ですが、朴泰遠が8月14日まで『毎日新報』に「元寇」という連載小説を書いていて、8月15日を過ぎると今度は早速「略奪者」という小説を書き始めます。その当時、変わり身の早さがどうかと思われるということで非難されたのですが、小説を見てみますと「略奪者」は日本のことではなくて蒙古の話で、新聞に連載していた蒙古侵略の物語とひと続きのものでした。
 それから、金南天は解放前の最後の時期に、「自分がもし再び小説を書くことができたら」という含みのある朝鮮語の小説「ともしび」(1942)を書いているのですが、彼が早速「八・一五」という長い長い連載物を書き出しています。しかし、そのあと中断したまま北に行ってしまいます。

解放直後を題材にした2つの小説

金松(キム・ソン/1909~88)の著書表紙
金松『武器のない民族』白民文化社、1948
 

■金松(キム・ソン)の「武器のない民族」

 この当時の小説には、植民地時代を題材にしたもの、解放前後に朝鮮人がどんな状況であったかを書いたものがいくつかあります。その中で、解放直後のことを書いた金松(キム・ソン/1909~88)の「武器のない民族」と金萬善(キム・マンソン/1915~?)の「ハングル講習会」(いずれも1946)の2つについて見ておこうと思います。
 まず金松の「武器のない民族」ですが、従来韓国ではあまり評価されていませんでした。なぜかと言うと、彼は大衆小説の作家と見られていたので、純文学で扱う作家ではないということらしかったのです。ただ、私はこれは非常に注目すべき作品と思われました。それは、この人の作品を見て初めて、8月15日は静かな1日で、8月16日以後も日本軍がずっとソウルを支配していたことが分かったからで、8月15、16日以後の朝鮮人がどういう状況であったかということを書いたものはほかにはあまりないのです。この小説は、召集されて軍隊に行って、8月15日に解放されたはずなのに一向に戻って来ない日本軍にとられたままになっている自分の息子を心配する母を描いた内容なのです。総督府や新聞社は相変わらず戒厳令のように厳しい状況であると書いてあります。ですから、8月16日以後ソウルが完全に朝鮮人の自由になったのではなく、米軍が来るまでは日本軍が戒厳令状態で厳重に警戒をしていたことが分かります。そういう解放直後のことが朝鮮人の悲しみとして非常によく書かれている小説だと思います。

■金萬善(キム・マンソン)の「ハングル講習会」

 そして、金萬善の「ハングル講習会」ですが、これは短編集『鴨緑江(アムノクカン)』(1948)に収められています。この人についてはほとんど分かっていません。出身校に残っている学籍簿でソウルの学校を強制退学になったことだけは分かります。解放前はどうやら満州で新聞記者をしていたようです。
 「ハングル講習会」は次のような内容です。満州にいた主人公は、解放を迎えていよいよ自分の祖国である朝鮮に帰れることになりますが、「われわれは今まで日本語で暮らしていた。祖国に帰るとすると朝鮮語が必要なのに、これでは新しい祖国で暮らすことはできないではないか。だから、朝鮮語をしっかり書けるようにしなければいけない。ぜひともハングルを学ぶ必要がある」と思うわけです。それで、みんなが引き揚げるという混乱期に、ハングルを習いにくる人が大勢いるだろうと考えます。主人公は知識人ですから、学校の教室を借りてハングルの講習会を開くことになります。お金もないので金稼ぎの目的もあったようです。そして苦労をして教科書を作り、あちらこちらにビラを張って、もし講習会で人がいっぱいになってしまうと困るので、自分の友だちも頼んで初日は2人で待機しているわけです。ところがいつまで経っても誰も現れないのです。結局最後までハングルを習いに来る人は1人もいなかったという話です。
 一見すると皮肉な内容ですが、多分ここに当時の朝鮮人の状況がよく現れています。あまりこういうところに焦点を当てる人がいないと思いますが、解放直後の混乱期の中で、こういう冷めた目をもって自分たちのあり方を描けたということは、評価できると思います。

日本人との関係に言及した作家たち

■金萬善(キム・マンソン)の「二重国籍者」

金萬善(キム・マンソン/1915〜?)の著書表紙
金萬善『鴨緑江』同志社、1949
 
 日本人との関係をテーマに扱った小説を2つ紹介しましょう。ひとつは、「ハングル講習会」と同じ作者・金萬善の「二重国籍者」(1948)という小説です。
 これは満州にいた朝鮮人の話です。満州では、日本人なのか朝鮮人なのか、あるいは中国人なのかということをはっきりさせることを要求されたのですが、主人公の男は中国に来たのだからということで、中国服を着て中国人の町に住んで、中国人に溶け込んで暮らしていました。ところが満州は朝鮮の国内と違って、戦争の終わる頃にはソ連軍が来たり中国人が暴動を起こしたり、非常に危険だったわけです。日本の軍隊は先に逃げてほとんど役に立たないので、残された人間に犠牲が多かったのです。日本人の犠牲も大きかったわけですが、朝鮮人も急いで避難をしなければ日本人と同じように殺されてしまうということで避難を始めます。ところがこの主人公は、自分は今までずっと中国人と一緒に付き合ってきたから大丈夫だと高をくくり、避難をしないで、家族もそのままにしておくわけです。しかし、暴動が広がり、結局家や家財道具は全部中国人に略奪されてなくなってしまいます。家族は、主人公の言うことを聞かないで危険を感じて先に避難していたのですが、この主人公だけはそういう危険を全然予想しなかったのです。そして結局捕まってしまうのですが、中国人のほうも軍隊が混乱していますので、その混乱の中で主人公が撃ち殺されてしまうというのがこの小説の内容です。
 もちろん満州は8月15日前後から危険な混乱状態になりました。中国人と親しくしていれば大丈夫だということもあったようですが、必ずしもそうとはいかなかったわけです。植民地時代に置かれていた状況というのは、朝鮮人の側からは確かに日本の植民地支配の犠牲者だと主張できるのですが、中国人の側から見れば日本人の手先であり、解放直後の中国大陸の中での立場はそう簡単ではないということがこの小説で描かれているのではないかと考えます。
 「ハングル講習会」やこの「二重国籍者」のような類の小説を書いた人は今のところまだほかに見あたりませんので、大変珍しいのではないかと思います。金萬善はその後北に渡って作品を書いています。この小説集『鴨緑江』は米軍の検閲で途中削除され切り取られている部分があったりしますので、当時はやはり要注意人物であったかもしれません。

■金来成(キム・ネソン)の「混血児(原題:民族の責任)」

 次は、金来成の「混血児」です。金来成は、朝鮮で唯一の探偵小説作家でしたが、彼は解放直後にいくつかの短編を書いていて、『幸福の位置』(1947)という短編集にまとめられています。ただ、この頃の本は、中身は同じでも出版するたびに題名が頻繁に変わっていて、同じ中身の本が『夫婦日記』として出されていたりします。「混血児」のもともとの題名は「民族の責任」だったのですが、探偵小説の大衆作家が「民族の責任」という重々しい名前の作品を書くことに当時の雰囲気が感じられます。
 「混血児」は、日本人女性と結婚した朝鮮人の男性が主人公で、娘が 1人いる家庭の話です。解放前で言ったら、内鮮一体の模範的な家族になるわけです。主人公の男は自分の奥さんをとても愛しているのですが、解放を迎えたあと、次第に何か深刻になって悩みを抱えるようになります。つまり、解放後の状況の中、日本人の妻を持っているということが社会に受け入れられないので、妻と別れなければいけなくなってしまうわけです。それで別れ話を持ち出して、最後に奥さんは日本に帰ることになります。その時、娘に両親のどちらが好きかと尋ねると、初めのうちは戸惑っているのですが、結局最後は父親におぶさって、別れていく母親に「イー」というようなしぐさをするのです。このあたりが何を意味しているのかよく分からないのですが、悲しむという様子ではないのです。
 こういう話がどれだけ実話としてあったかどうかは明らかではありません。しかし、大衆小説または探偵小説の作家であった人が、解放直後の自分たちの民族というもの、そして今までの日本人との関係を考えた小説を書いていることが見て取れます。ただし、ずっとそういうテーマを追求したわけではありませんので、作者がどれだけの深みを持っていたかということは分からないのですが、異様な感じを与えることは確かです。このあと金来成は大河小説のところで紹介した『青春劇場』を書いて活躍することになります。彼は韓国では原稿料で最初に家が買えた人と言われていますから、大変売れっ子の作家になりました。


親日文学のその後

《鳳凰閣座談会》での文学者の自己批判

 解放後の文学界における思想の対立について先ほど述べましたが、日本の戦争責任とも関連して、前回お話した親日文学と呼ばれたものにかかわっていた人たちの問題もありました。最大の日本協力者と見られていた李光洙は、1948年に『私の告白』を出したもののその中には皆の期待した反省というようなものは書かれていませんでした。ところが彼は1947年に独立運動家・安昌浩の公式の伝記『島山 安昌浩』を書いています。また最近まで読まれてきた金九の自伝『白凡逸志』(1947)も本人の原稿をもとに李光洙が書いたものでしたから、表面的には民族の反逆者と言われながら、独立運動家から一目置かれていた彼の立場は大変微妙だと思います。
資料31
雑誌に掲載された《鳳凰閣座談会》の記録

出典:座談会「文学者の自己批判」『人民芸術 第2号』研文社、1946. 10(布袋敏博氏提供による)
 
 解放前にはほとんどの文学者たちが多かれ少なかれ日本に協力したと言えそうなのですが、実は、それを彼ら自身がどう考えていたかということに関しての記録はほとんどありません。唯一残っているのが1945年12月に開かれている「文学者の自己批判」をテーマにした座談会、いわゆる《鳳凰閣座談会》と言われているものの記録です。ここには金南天、李泰俊、韓雪野、李箕永、金史良(キム・サリャン/1914〜50)、李源朝(イ・ウォンジョ/1909〜55)、韓暁(ハン・ヒョ/1914〜 )、林和らが出席しています。これは朝鮮プロレタリア芸術同盟と朝鮮文学建設本部の2つの対立を解消するためにソウルに集まった機会に開いたものだと思います。この記録が雑誌『人民芸術』の1946年10月号に掲載されました(資料31)。
 例えば林和は大変率直に、「われわれはみんな多かれ少なかれ日本に協力した」と反省しています。共産党の中心人物の朴憲永が「われわれは全員反省しなければならない」というようなことを新聞に書いていますから、林和もそれを引き継いだのかも知れません。ところが林和の反省は面白いもので、どういうところに反省の基準を設けるかというと、「もし日本が負けないで勝っていたとしたら、自分は今何をしていただろうか。そのままの状態だったらどうだっただろうかということを考えることが、自己批判の原点ではないか」というもので、これは面白い発想だと思います。つまり、「日本が勝っていたら、自分はどういう態度をとっていただろうか、そのまま日本に迎合していたか、またはそのままの仕事を続けていたと考えると、これは非常に恐ろしいことだ」というわけです。また、金史良は日本語を使うこと自体は悪いが日本語で書かざるを得なかったということについての反省を述べており、李泰俊は日本語そのものが悪いと言っています。ただ最近になって、李泰俊にも日本語作品があったことが明かになってはいます。いずれにせよ、自分たちの植民地時代のことについて反省をした文学者たちの座談会としては、珍しいものだと思います。

小説に見る親日文学者の悩み

■李泰俊(イ・テジュン)の「解放前後」

雑誌に掲載された「解放前後」第1頁
出典:李泰俊「解放前後」『文学 創刊号』朝鮮文学家同盟、1946. 7
 
 李泰俊については、「解放前後」(1946)という有名な小説があって、これは日本語の翻訳があります。
 内容は文学家同盟の副委員長として活躍する李泰俊を主人公にしたものです。ところが、李朝時代を生きているような老人が田舎から出て来て、主人公に「お前はこの頃共産党に入ったそうではないか。一体共産党にだまされて何をやっているんだ」と話します。それで主人公は、「昔と今とでは違っている。昔は本当にやらなければいけないことをやらずに委縮していたが、今は自分たちがやらなければいけないことがあるので、それを目指して進まなければいけない。だから、私は共産党の人間でも何でもないけれども、自分が正しいと思うその道に進んで、文学に生きていきます」ということを言うわけです。
 従来は、その当時の知識人の悩みを描いた小説とみなされていたようです。確かに解放直後のそういう状況の中で、もともとは民族主義者として共産主義とは絶対に相容れない人と見られていた李泰俊が、文学家同盟に加入して共産主義に近づいたということが周囲から奇妙な目で見られていたということはあると思います。しかし、解放後の新しく変わった状況での自分の行動を論理的に説明するにしては、その安易さには少し問題があるのではないかと思います。
 李泰俊は、文学者の中では一番早く北に行きます。おそらく1946年7月に北に渡っています。そしてソ連訪問団に加わってソ連に渡ります。その紀行記が『蘇聯紀行』(1947)ですが、ソ連を無条件に誉めており、李泰俊の愛読者はこれを読んでがっかりしたことが当時の評論からうかがえます。
 同じようなテーマを扱った小説に、池河蓮(チ・ハリョン/1912〜?)の「道程 ― 小市民」(1946)があります。これも自分たち知識人はどうすべきかという似たような内容です。池河連は林和と一緒に北に行ったと言われています。

■蔡萬植(チェ・マンシク)の「民族の罪人」

 私としては、日本に協力した知識人または文学者の悩みの深刻さを、蔡萬植の「民族の罪人」(1948〜49)に最もよく見ることができると思います。彼は解放後の朝鮮を舞台にした「ミスター方」、「歴路」、「豚」、「孟巡査」、「田んぼの話」(いずれも1946)などを書いているのですが、「民族の罪人」が一番深みがあって、問題が一番鋭いものだと思います。
雑誌に掲載された「民族の罪人」第1頁
出典:蔡萬植「民族の罪人」『白民 第16号』白民文化社、1948. 10
 
 これは作者・蔡萬植と非常に近い人間が主人公で、“私”となっています。中心の登場人物は、“私”と金(キム)君と尹(イン)という3人です。金君は“私”の友だちで、雑誌社を経営しています。尹は新聞記者だった人ですが、田舎にこもって農作業をして、一切日本に協力をしなかった人です。“私”が金君の会社に行くと、尹と出会うわけです。尹は対日協力をしなかった人間ということで、“私”にとって煙たい人間の1人でした。すなわち“私”には、日本に協力したというやましさがあったわけです。
 作家である蔡萬植に当てはめて見ると分かるのですが、彼は1944年から45年まで『女人戦記』という題名のいかにも戦争文学らしい小説を『毎日新報』に連載しています。植民地時代の朝鮮での朝鮮語の作品としては、それが最後のものになります。蔡萬植は植民地時代、朝鮮語の作品として完結した最後の小説を書いた人なのです。題名からすると戦争を扱った内容のような印象を与えますが、読んでみると少し違っています。確かに戦争の話が出てきますが、実は中身は大変寂しい感じの小説で、日本の軍人になった子供を持つ母親の一代記です。死んでしまった自分の夫を忍びながら母親がいかに苦労して子供を育てたか、またその苦労して育てた息子たちが無事に育っているけれども、むなしさというものは消えないということで終わっています。小説としてはあまりできは良くありませんが、植民地時代末期の朝鮮人にとってのむなしさが非常によく出ています。ただいずれにしても総督府の意向を受けて書いた小説であることは確かですから、彼にはそのやましさがあったようです。
 「民族の罪人」の中の“私”も、ずるずると対日協力にはまり込んでいく思いにさいなまれ、どこかでけりをつけなければいけないと、思い切って田舎に疎開をするのです。そのきっかけは、ソウルで警戒している日本の軍人たちが、日本が負けた時に朝鮮人が暴動を起こすといけないので、それに備えて機関銃を携えて演習をやっているのを見たことでした。
 そういう思いのある“私”と金君を前にして、尹が最近の情勢について非難をします。尹は、「今まで親日的だった人間が盛んに愛国者面をして活躍をしていることは、絶対に許せない」と言うのです。ところがそこからこの小説の中心になる金君と尹の論争が始まります。金君はもちろん日本に協力した人で、尹は日本に協力を一切せずに筆を折って田舎に行った人です。その筆を折って日本に一切協力しなかった人間を、金君は「あなたは愛国者と言う資格もないのに、対日協力した人間がどうだと言っている。そういうものに対して自分が説を曲げなかったからといって、自慢をするのではない」と非難をするわけです。尹がなぜ日本に協力しなくて済んだのかというと、父親が地主で金持ちだったから生活ができ、自分の説を曲げずに済んだわけです。そうして、他の人間がなぜ日本に協力したかと言ったら食べざるを得ないからで、原稿を書いてお金を儲ける以外に生活の手段がなかったからです。つまり、尹は自分の力ではなくて父親のおかげでそうなっただけではないか、いざとなった時変節しないかどうかはまだ確かめられていないのだ、と言って金君と尹が大論争を起こします。それを聞いていた“私”は頭が混乱し、家へ帰ってから2週間ほど寝込んでしまうことになります。
 このような話は、日本での戦争責任の問題のところでもあまり出なかったので、大変珍しい発想法ではないかと思います。ただ私が小説としてあまり完成していないと考えるのは、ここまでで問題を締めくくっていればこれは非常に深刻な小説で終わったのですが、続きがまだ少し残っており、その部分がしっくりこなかったからなのです。
 “私”が寝込んでしまって、それを見かねた“私”の妻が、「あなたのやった対日協力などそれほど大したことではないではありませんか。これから新しい国を作るということに対して心を入れ替えてやって行けばそれで良いはずです。だから、あなたは元気を出しなさい」と言い、その言葉で“私”は勇気づけられるのです。
 そこへ偶然“私”の甥がやって来ます。甥は学校に行っているはずなので不思議に思い理由を聞くと、甥は「学校では同盟休校をやっていて、それを一緒にやっていると勉強ができなくなる。しかし自分は勉強をしたいから、そのためにしばらくおじさんの家にやって来た」と言うわけです。そこで“私”は、「みんながこの朝鮮のことを考えていろいろ走り回っている。同盟休校をやっている人間だって一生懸命やっている。それを放ったらかして自分だけ良い目をしようと思って抜けて来るとは絶対に許せない。お前は早速同盟休校のところに戻って、一緒にやるべきだ」と諭して帰させます。そして“私”は甥を諭したことでとても気分が晴れた、というのが結末です。
 私はこの最後の部分である、奥さんに慰められ再び起き上がる勇気を得て、そして自分の甥をたしなめて正しい道に進ませたということで終わったのがしっくりこなかったのです。それで、この小説はこの部分があるので文学作品としてはだめだと思っていました。ところが、韓国人と話すと、この最後の部分があるから良いと言うのです。なぜだろうかと思ったのですが、ひとつはやはり前から言っている李朝時代の両班の気質なりの伝統がここに表れていて、この部分がないとどうしても落ち着かないのだと思います。つまり小説を読んでいて、この部分が非常に安心感を与えるところがあるので、朝鮮人にとっては意外とこの最後の部分は違和感がないようです。
 そのことがあって、もう一度この小説をいろいろ見直してみました。すると妙なことに、この小説の中心は作者に当たる“私”にあるのではなく、金君と尹という人間の論争になっているわけです。本来だったら“私”が日本に協力したという思想的な問題をどうするかというところが焦点になるはずなのに、よく読んでみると、その焦点をはずれて、尹という人間が父親のおかげで対日協力をせずに済んだという問題を中心に取り上げていることになっています。つまり、非常に深刻な小説だと思ったのですが、実は巧妙に何か問題がずらされているらしいのです。ですから、この小説はかなりさまざまな問題を含んでいることが分かります。
 これを実際に書いたのは1945年12月頃らしいのですが、作者はこれを書くことでひとつの区切りをつけたようです。それでそのあと、先ほど挙げたいろいろな小説、例えば「ミスター方」、「孟巡査」、「田んぼの話」など、そういうものをどんどん書けることになったのだと思います。「ミスター方」は、アメリカ軍に出入りして大儲けしていた人間が最後には大失敗をしてしまう話です。また「孟巡査」は、巡査をやめていた人が、解放後になって結局どこにも行くところがなく、それでもともとの巡査に戻るのですが、昔強盗殺人で刑務所に入っていた人間で巡査になっている同僚と出会い、自分は仕返しされるのではないかと思ってあわてて逃げてきたという話です。つまり、これは非常に皮肉な小説です。それから「田んぼの話」は、解放になってこれで日本に取られた田んぼが戻ってくると思っていたら、実は日本人はその前に全部合法的に売り払っていたので、所有権が全部朝鮮人に移っていて、結局昔奪われた土地は戻ってこないという話です。解放後だって何も良いことは起こり得ないのだということが、蔡萬植の意地の悪い皮肉なタッチで描かれているわけです。
 満州の話を書いた金萬善も注目すべきだと思いますが、鋭さから言うと、蔡萬植の解放後の小説は彼の風刺が非常によく効いていて、植民地時代の有名な小説よりはずっと良いと思いますし、「民族の罪人」のような珍しいテーマを扱った小説も朝鮮ではほとんどほかに類を見ません。
 ここで紹介したものは、この混乱期に書かれた小説の中では何かしらの問題性をはらむ小説に属すと思います。特に「民族の罪人」の問題提起は、非常に注目すべきだと思います。


解放直後の詩集と雑誌

 最後に、解放直後に出された詩集と雑誌を少し見てみましょう。
 個人の詩集としては、林和が解放後に書いた非常に政治的な内容の『讃歌』(1947)を出します。これは、林和の解放後の新しい創作としては唯一のものです。解放直後にすぐに出たものが中央文化協会の『解放記念詩集』(1945)で、右とか左ということは関係なしにいろいろな人の詩を集めたものです。ところが意外と解放の感激を歌ったような詩がほとんどなく、観念的な詩ばかりという印象を与えます。朝鮮文学家同盟のほうでは、翌46年に朝鮮文学家同盟詩部委員会が薄っぺらな『三一記念詩集』を、また1947年に『年刊朝鮮詩集』というアンソロジーを出しています。それから、1946年に朝鮮文学家同盟ソウル支部が『たいまつ』という詩集を出しています。
金台俊(キム・テジュン/1905〜49)、1936年
出典:金台俊(崔英成訳註)『譯註朝鮮漢文学史』シイン社、1997
 
 雑誌としては、1945年に2つの文学団体は合同したはずなのに、朝鮮プロレタリア芸術同盟は依然として自分たちの独自性を主張して『芸術運動』を発行しています。これは結局、北の中心人物になった人たちの雑誌です。それに対して朝鮮文学家同盟は『文学』を出して、ソウルでずっと活躍をします。この中には李泰俊の「解放前後」が載っていますし、金台俊(キム・テジュン/1905〜49)の「延安行」(1946〜47)も載っていて、その日本語訳が訳本『朝鮮小説史』(平凡社、1975)の解説に入っています。文学家同盟は、ソウル支部だけは別に活躍していて、ソウル支部の機関誌『われらの文学』を何号か出しています。どうもその組織の関係はよく分からないのですが、うまくいかない時にそれぞれが独立してこういう活動をしていたということが言えます。
 それから、民族主義者の人たちの文学雑誌としては『白民(ペンミン)』が活躍しました。この雑誌に金松の「武器のない民族」や蔡萬植の「民族の罪人」が掲載されました。民族主義ということで左翼関係やマルクス主義関係などに対しては反発をする人たちの雑誌ですが、中身は充実していたと思います。
 解放直後は、初めて朝鮮の政治と文学すべてのものに可能性が生まれたため、何もかもが整理されずに一度に表に出てきたということが混乱の理由のひとつかもしれません。話すべきことはまだまだたくさんありそうですが、いったん打ち切っておきます。