(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 VII 章)


第 VII 章 解放前までの文学


 朝鮮でも日本でも近代文学は19世紀のヨーロッパの文学をモデルにし、取り入れてきたと言えるでしょう。ただし、朝鮮の近代文学が日本を通して導入されたのは確かです。初期の近代文学の担い手はほとんど日本留学の経験者でした。詩の分野の簡単な成り行きはほぼ第5回で話したとおりなのですが、一方小説は非常に量が多く、また長い作品も目立ち、近代はやはり小説の時代とも言えそうです。李人稙の「血の涙」から始まった新小説に続き、朝鮮初の本格的な長編小説「無情」を書いた李光洙の登場までは既に見たわけですが、そのあとの流れを4回にわたって話したいと思います。まず、日本からの解放までの近代文学についてです。

金東仁(キム・ドンイン/1900〜51)
出典:編輯委員会編『韓国作家アルバム』三省出版社、1972
 
廉想渉(ヨム・サンソプ/1897〜1963) 出典:編輯委員会編『韓国作家アルバム』三省出版社、1972
 
羅稲香(ナ・ドヒャン/1902〜26)
出典:『韓国小説文学大系 22』東亜出版社、1995
 

純文学の作家たち

自然主義の作家

 近代文学における小説の書き手は中人(チュンイン)と言われている両班ではない商人や医者などの家柄の人が多く、これは日本で言うと町人に当たり、経済的には余裕があり、身分としては両班ではない人たちでした。その人たちの中で、李光洙に対して「あれは大衆文学だからだめだ。本当の芸術的な文学ではない」と反逆して出てきたのが、金東仁(キム・ドンイン/1900〜51)です。初期の作品が「弱き者の悲しみ」(1919)や「船歌」(1921)です。「船歌」は朝鮮語では“ペタラギ”ですが、古典音楽にある題名と同じで、船が出る時の歌という意味です。それから「甘藷(カムジャ)」(1925)があります。これは韓国では、朝鮮の貧しい人たちをリアルに描いた自然主義の小説として評価されてきました。いずれにしても、金東仁は李光洙のように大衆に訴える小説の書き方をしないで、芸術としての文学を目指した人です。彼の作品の特徴は歯切れの良い文体とアイロニカルな構成にあるようです。
 それから廉想渉(ヨム・サンソプ/1897〜1963)は、金東仁と違った意味で近代文学を作ろうとした人で、文学史では自然主義の作家と言われています。作品には「標本室の青蛙」(1921)、「万歳前(原題:墓地)」(1923)や「三代」(1931)があります。「万歳前」は、日本に留学していた朝鮮人が日本と朝鮮を行き来する時の心情を描いたものです。また「三代」は、朝鮮の三代の一家の生活を書いたもので、それぞれの世代による考え方の違いがとても面白くてなかなか良くできた作品だと思います。
 また羅稲香(ナ・ドヒャン/1902〜26)の「桑の葉」(1925)は、日本では映画になったので知られていますが、彼の作品はやや構成が単純で、この人が将来まで読まれるかどうかは分かりません。

モダニズムの作家

 詩のところで紹介した李箱、本名は金海卿(キム・ヘギョン)ですが、彼は小説も書いており、私はこの人の「十二月十二日」(1930)は、朝鮮の近代文学史上に残る注目すべき作品ではないかと思っているのですが、残念ながら韓国ではあまり取り上げられていません。ほかには「地図の暗室」(1931)や「蜘蛛豚に会う」(1936)という変な名前のものがあります。日本では、1936年に書かれた「翼」と「蜘蛛豚に会う」だけが現在翻訳されています。李箱は、まだまだ完全に研究されているとは言えませんが、ダダイズムやモダニズムの小説家として注目すべきだと思います。
李孝石(イ・ヒョソク/1907〜42)
出典:李孝石『李孝石全集 1』創美社、1983
 
 韓国の教科書にも出てくる李孝石(イ・ヒョソク/1907〜42)は、「そばの花咲くころ」(1936)という作品で有名です。もともとはプロレタリア文学のそばにいた人で、「露領近海」(1930)はロシア領に逃げて行く話、「北国点景」(1931)は国境の近くの風景を描いたもので、大変きれいな書き方をしています。李孝石はプロレタリア文学の周辺にいた時でも基本はモダニズムで、憧れを美しく書いた人だと思います。
 そして、最近日本でも知られるようになった朴泰遠ですが、北で『甲午農民戦争』を書いた人だということを前回お話しました。朴泰遠の有名な作品は、「小説家仇甫氏の一日」(1934)や「川辺の風景」(1936〜37)で、モダニズムの小説家として非常に評価されています。モダニズムといっても、実はもともと漢文の教養のある人で、文体をいろいろ変えるということで面白い試みをたくさんしており、第1章と最後の章が全く同じ文章で、ちょうどぐるぐる回る短編「道は暗くて」(1935)という作品を書いたりしています。しかし、そういった試み自体にそれほど深みがあるとも思われません。「川辺の風景」は通常の書き方をした長篇ですが、ソウルの真ん中で生まれた作者がそこでの庶民たちの姿を生き生きと描いたということで、現在でもとても価値があるのではないかと思います。

純文学の最高峰・李泰俊(イ・テジュン)と《九人会》の高水準

李泰俊(イ・テジュン/1904〜?)
出典:李泰俊『李泰俊文学全集 月夜』キップンセム、1995
 
 それから朝鮮の文学の中で、日本の植民地時代では最高の存在と言われているのが李泰俊(イ・テジュン/1904〜?)です。この人は北に行ったので韓国ではタブーとして扱われなかったのですが、短編の見事さは抜群です。「烏」(1936)、「春」(1932)、「月夜」(1933)、「福徳房」(1937)、「夜道」(1940)などたくさんの短編があります。北に渡ってからの作品では、最近再発見された「埃」(1950)が分断に対する苦悩を扱っていて断然注目すべき問題作です。短編において、彼は朝鮮文学の美学を完成させた人と言って良いと思います。彼の描く哀愁を帯びた美しさは群を抜いています。
 長編は全然スタイルが違っておりほとんどの人は問題にしていないようですが、作者の民族主義がとても強く出ています。例えば「不滅の喊声」(1934〜35)は、朝鮮人がアメリカに渡ってそこの炭鉱で働きながら苦学をするという珍しいテーマで、短編の美学の完成者としての李泰俊からはだいぶかけ離れた印象を与えます。「聖母」(1935〜36)は未完ですが、男性に捨てられて1人で子供を育てる女性の話です。私は「第二の運命」(1935〜36)、「不滅の喊声」、「聖母」が彼の長編では注目すべき問題作ではないかと思います。
金裕貞(キム・ユジョン/1908〜37) 出典:金容誠『韓國現代文學史探訪』国民書館、1973
 
注(13) 冬柏の花
従来「椿の花」とされてきたが、本当は小さくて黄色い花を咲かせる「だんこうばいの花」のこと。赤い椿と黄色いだんこうばいとでは、イメージが全く異なる。 出典:李昌福『大韓植物図鑑』郷文社、1979
 
 次に金裕貞(キム・ユジョン/1908〜37)ですが、彼の文学はとても土俗的で、作品には「春、春」や「山里」(いずれも1935)、「冬柏(トンベク)の花」 注(13)、「山里の旅人」(いずれも1936)があります。これらは彼の田舎の農村風景を描いたユーモアあふれるものですが、前にも少し言いましたように、朝鮮のユーモアには土俗的な要素が強く、面白そうだということは分かりますが、日本人にはその面白さが実感しにくいようです。
蔡萬植(チェ・マンシク/1902〜50)
出典:金容誠『韓國現代文學史探訪』国民書館、1973
 
 また、蔡萬植(チェ・マンシク/1902〜50)の「レディメイド人生」(1934)や「濁流」(1937〜38)、「太平天下」(1938)も面白いのですが、彼の場合は近代文学としての完成度を持ちながら、全羅道の方言を生かした語りの文体とでもいうスタイルで書いているので、少し様子が違います。全羅道の方言というとどうしてもパンソリ調になり、その中で出てくるユーモアなので、やはりこのユーモアがしっくりと伝わりにくいということがあります。
 小説はほかにもたくさんありますが、ここに挙げた作家たちの作品は水準が高いものです。李泰俊や朴泰遠、李箱らは1930年代の終りに小説の水準を最高の段階に到達させたと言われます。しかし、そこには自分たちの民族のことや時代が折り込まれ、中でも金裕貞や蔡萬植は語りの口調やその描写の中に土俗的なもの、または彼らの言葉の習慣が入っているので、外国人には分かりにくさが残ります。金裕貞と蔡萬植の作品を原文で無理なく読めるかどうかが朝鮮の文学が分かるかどうかの決め手になると言えそうです。
注(14) 九人会
当初のメンバーは、金起林、李孝石、李鐘鳴、柳致真、趙容萬、李泰俊、鄭芝容、李無影。その後、李孝石と、新聞記者だった李鐘鳴、金幽影の3人が抜けた代わりに、朴泰遠、李箱と北へ行った詩人・朴八陽(パク・パリャン/1905〜88)が加わった。最終的には、劇作家の柳致真と新聞記者の趙容萬が抜け、金裕貞と評論家の金煥泰(キム・ファンテ/1909〜44)が入った。
 ところで、この時代の文学の水準を高めるのに貢献した作家たちは1933年に発足した《九人会》 注(14) というグループに属している人がほとんどでした。この九人会という名は、会員の出入りはあったものの常に9人で構成されていたという理由から付けられましたが、特別な組織ではなく、目立った文学の運動を行ったわけではありません。しかし、朝鮮の文学水準を最も高めた人々が加わっていたということで有名です。つまり小説で言えば李泰俊、詩で言えば鄭芝溶というように、詩と小説の最高峰の人が九人会にいました。それから朴泰遠、李箱もいたということで、九人会のメンバーの活動を見ればその当時の朝鮮の文学水準が分かることになるのです。


プロレタリア文学の誕生とその限界

《カップ》の結成

注(15) パスキュラ(PASKYULA)
この名前には特別な意味は無く、集まった同人の名前の頭文字から取ったと言われる。具体的には次のとおり。PA=朴(パク/朴英煕)、S=星海(ソンヘ;李益相の号)、または李相和(サンファ)のS、K=金(キム/金基鎮、金炯元)、YU=延(ヨン/延鶴年)、L=李(リ/李益相、李相和)、A=安(アン/安碩柱)。
出典:金基鎮「私の回顧録1 初創期に参加したのろま」『世代 14号』世代社、1964. 7
注(16) カップ
1925年8月結成の朝鮮プロレタリア芸術同盟は、1927年第1次方向転換以後、一般的にはこの略称を使用。エスペラント語の Korea Artista Proleta Federation = KAPF、または英語の Korean Proletariat Artist Federation = KPAFという2つの表記があるが、それに従えば正確には“芸術同盟”ではなく“芸術家同盟”となる。
注(17)
本文に出ているプロレタリア文学の文学者たちの読みは以下のとおり。 宋影(ソン・ヨン)、李赤暁(イ・チョクホ)、李浩(イ・ホ)、朴世永(パク・セヨン)、金東煥(キム・ドンファン)、朴英煕(パク・ヨンヒ)、金基鎮(キム・キジン)、金復鎮(キム・ボクチン)、金永八(キム・ヨンパル)、李益相(イ・イクサン)、朴容大(パク・ヨンデ)、崔承一(チェ・スンイル)、金nq(キム・オン)、李相和(イ・サンファ)、安碩柱(アン・ソクチュ)。
 時代をもとに戻しますが、1920年代も半ばを過ぎると文学の質の分化が起き、《プロレタリア文学》が生まれます。まず1923年に宋影、李赤暁、李浩、朴世永、金東煥などといったメンバーによる《焔群社》が、次に、実際には1923年か24年かよく分からないのですが、朴英煕、金基鎮などによって《パスキュラ(PASKYULA)》 注(15) ができます。そして、この2つのメンバーが一緒になって、1925年に《朝鮮プロレタリア芸術同盟(略称:カップ)》 注(16) を結成します。朴英煕、金基鎮、李浩、金復鎮、金永八、李益相、朴容大、宋影、崔承一、李赤暁、金nq、李相和、安碩柱の13人が当初のメンバーで、始めは各自がばらばらにあちらこちらに文章を書いたりしていました 注(17)
中西伊之助歓迎座談会(1925年8月17日開催)時に撮影されたもので、朝鮮プロレタリア芸術同盟の準備の集まりと言われている
後列左より宋影、崔承一、金基鎮、朴英煕、李益相。前列左より金永八、李赤暁、李浩、中西伊之助、朴容大、金nq)
出典:権寧nq「中西伊之助と1920年代の韓国階級文壇」『社会文学 第7号』日本社会文学会、1993. 7. 30
 その後1927年には、プロレタリア文学はただ反抗しているだけではだめだ、政治的な意識と方向性をしっかり持たせなければいけないということで第1次方向転換をします。また1931年の第2次方向転換は、ボルシェヴィキ化・党の文学とよく言われますが、共産党主導の文学を目指したということです。第2次方向転換の時には若くて元気な人が参加しましたが、すぐあとに大々的な検挙が2回もあり、1935年に解散してしまいます。ですから、日本より少し遅れるのですが、動き出してから解散するまで長目に見ても10年でこの歴史は閉じるわけです。
金南天(キム・ナムチョン/1911〜53?)
出典:『現代朝鮮文学全集 7評論集』朝鮮日報社出版部、1938
 
林和(イム・ファ/1908〜53)
出典:『現代朝鮮文学全集 1詩歌集』朝鮮日報社出版部、1938
 
 プロレタリア文学運動は評論が先行していて、特に林和や金南天(キム・ナムチョン/1911〜53?)の業績は無視できないと思いますが、反面作品のほうではあまり成果は多くなかったと思います。ただし、植民地時代に日本に抵抗するという意味で言えばいろいろと意義のあるものがあったと言えそうです。

■林和(イム・ファ)の「うちのお兄さんと火鉢」

 プロレタリア文学として今でも優れた成果として残っているのは、詩では、松本清張の『北の詩人』の主人公のモデルになった林和(イム・ファ/1908〜53)ではないかと思います。
 林和は、若い時はあちらこちら放浪し、自分でもダダイストだと言っていたそうですが、ロマンチックな心情の持ち主だったようです。それが1927年ぐらいにプロレタリア文学に近づいたようです。彼の作品には長い詩が多く、それが彼の生涯を通しての特色のひとつだと言えます。作品では、「十字路の順伊(スニ)」という詩もよく知られていますが、「傘をさす横浜の埠頭」(いずれも1929)は、追放されて朝鮮に追われて行く人が日本に残る女性に訴えるということで、これは有名な中野重治の「雨の降る品川駅」(1929)に応える形になった詩です。
 同じ1929年の「うちのお兄さんと火鉢」は、活動家のお兄さんが捕まったあと、弟と妹がお兄さんの跡を継いで耐えるという長い詩ですが、ここにも林和のロマンティックな書き方がよく出ています(資料編参照)。この詩は当時プロレタリア長編叙事詩と言われて、かなり好評だったようです。ロマンチシズムを軸にしながら階級闘争を歌っているのが彼の特色です。しかしプロレタリア文学の好きな人の中では、北に行ってから「金日成将軍の歌」(1946)を作った詩人・朴世永(パク・セヨン/1902〜89)のほうが良いという人もいます。

プロレタリア文学の限界

 プロレタリア文学に対して何か戦闘的な内容を期待している人にとって林和の詩は物足りない感じがするかもしれませんが、朝鮮のプロレタリア文学は、これ以上強力で文学的な水準の高いものはないと思ったほうが良いでしょう。日本と闘うことや日本からの独立運動はどうなっているかということを朝鮮のプロレタリア文学の中に見ようとすると、多分失望すると思います。李光洙の小説の中に、日本の警官を撃ち殺して逃げるなど日本人に対するすごい憎しみを描いたものはありますが、その当時出版されたプロレタリア文学の小説の中では、間接的な記述は別として日本人を正面から扱って攻撃するというようなものはありません。日本人と闘う、または階級闘争の中で日本人とやり合うこと、あるいはその思想を直接描いたり記述したものはないと思ったほうが良いのです。
 プロレタリア文学は確かに階級文学でしたが、階級闘争ということを表に出したお陰で独立闘争は裏に秘めることになり、逆に日本の検閲が緩やかになった可能性もあるわけです。ですから、独立運動や階級的な闘争、または日本に対する闘争というものがあまり表に出ていないということでプロレタリア文学に対する期待を裏切られると思いますが、実際はそうだと思います。それでは何を書いていたかと言うと、一般的な階級意識や、当時の朝鮮の農民や労働者の姿を描いたわけです。
崔曙海(チェ・ソヘ/1901〜32)
出典:金容誠『韓國現代文學史探訪』国民書館、1973
 

■崔曙海(チェ・ソヘ)の「紅焔」

 迫力のある小説では崔曙海(チェ・ソヘ/1901〜32)が断然抜きん出ています。舞台はほとんどが満州で、崔曙海の文学ほど朝鮮人の悲惨な姿を描いた迫力のあるものはないと思います。文章もしっかりしています。「吐血」(1924)、「飢餓と殺戮」(1925)、「紅焔」(1927)などにもやはり日本人は出てきません。その代わり「飢餓と殺戮」とか「紅焔」では悪徳な抑圧者は中国人となっていて、現代では少し問題が起こりそうです。そのため、北で出ている崔曙海の本では中国人の描写のところは削られて消えています。実は変なことですが、現在韓国で出ている崔曙海の全集でも同じ部分が抜けているのです。初めは私もなぜもとの本にあった中国人のくだりが抜けているのか不思議でした。編集した人が中国系の人だから抜いたのかと思っていたら、最近になって、北で出ているものを手本にしているらしいと気付きました。韓国の研究者はつい最近まで、プロレタリア文学で一番良い本は北の本だと思っていたのではないでしょうか。
趙明煕(チョ・ミョンヒ/1894〜1942)似顔絵
安碩柱画 出典:『別乾坤』開闢社、1927
(説明文訳)頬をひっぱると声が出てくるような詩朗読の趙明煕氏
 

■趙明煕(チョ・ミョンヒ)の「洛東江」

 それから、その当時評判になったのが趙明煕(チョ・ミョンヒ/1894〜1942)の「洛東江(ナクトンガン)」(1927)でした。なぜ有名だったかというと、1927年7月はカップがちょうど方向転換をする頃で、その時に階級意識や政治意識を盛り込んだ小説として評価されたからです。
 物語は、ある階級運動家が逮捕されるのですが、体を悪くして保釈されることになった時に、彼に労働運動や階級運動を指導された人たちが迎えに行く場面から始まり、どうして彼の教えを受けたかといういきさつがずっと語られています。その中には、白丁(ペクチョン)であったローザという名前の女の人が出てきたり、その人たちがいかに差別を受けているかという話が出てきたり、朝鮮の農村での話がいろいろ紹介されています。その後彼が病気で死んでしまうのですが、彼の意志を引き継いだローザは満州に行き、彼女がその運動を続けるだろうという、ある哀愁を帯びた雰囲気で終わります。「洛東江」は、プロレタリア文学というのがまだ現役であった当時の文学の中で、闘いの強烈な内容ではないのですが、やはりロマンティシズムと通じ合う何か心を打つような哀愁を帯びた余韻が残るという意味で印象的な作品です。趙明煕は、1940年にソ連に渡って行方知れずになったのですが、最近になってスパイという名目で処刑されたらしいということが分かっています。

■李箕永(イ・ギヨン)の「故郷」

 現在の立場からプロレタリア文学の一番の業績を挙げた人といえば、李箕永と韓雪野(ハン・ソリヤ/1900〜?)だと思います。2人とも北に渡りましたが、大物はやはり李箕永のほうだと思います。李箕永の『豆満江』を前回紹介しましたが、プロレタリア文学では長編小説の「故郷」(1933)が非常に有名で、朝鮮の農村での地主や小作人や新しくできた工場で働く人の姿を描きながら、日本の留学から帰って来た学生が自分たちの村での改革運動を考えるという穏やかなタッチの小説です。李箕永の小説は全部穏やかで柔らかなもので、そのお陰で現在でも読めるのではないかという気がします。
 意外なことに、李箕永の本が一番たくさん出版されたのはほとんどの人が本を書けなかった1940年代の暗黒期で、5冊か6冊の長編を出しました。このような人はほかにいません。日本統治が厳しくなったその暗黒期に本を一番多く出したということから言えば、李箕永こそ日本に協力した親日文学家ということになりかねません。しかし、1942年に出た小説『春』は近代における農村の移り変わりを映し出すという意味では評価し得る小説ではないかと思います。彼はこの作品に愛着があったらしく、解放後に書き直すと同時に、同じ主題を拡大してより大きい『豆満江』という長編に結実させました。

■宋影(ソン・ヨン)の「交代時間」

宋影(ソン・ヨン/1903〜79)
出典:金允植『林和研究』文学思想社、1989
 
 プロレタリア文学が穏やかだという話ばかりしていると失望されるかもしれませんので、日本人が出てきて、朝鮮人と日本人が渡り合う場面が出ている小説として私が知っているものを紹介します。
 やはり北に行った人ですが、小説「石工組合代表」(1927)が有名な宋影(ソン・ヨン/1903〜79)の「交代時間」(1930)です。これは日本の鉱山で働く朝鮮人の労働者の姿を描いています。鉱山の搾取が厳しいので雇い主に反抗しようとすると、雇い主側に立った暴力団のような日本人がたくさん来て、乱闘騒ぎになるわけです。日本人と朝鮮人が民族意識をむき出しにした殴り合いになり、怪我人が病院に担ぎ込まれ死人も出るという話で、このように迫力のある描写は今のところこの「交代時間」以外には知りません。
 もちろんこれはプロレタリア文学として書かれていますから、最後にはやはりこういうことではいけない、労働者は団結しなければいけないということで、日本人の労働者と朝鮮人の労働者がお互いに民族感情を抑えて団結して闘おうではないかということで終わります。しかし私の感じでは、朝鮮人の坑夫と日本人が闘う迫力のあるところが、おそらくこの小説の一番の狙いではなかったかと思います。その当時、朝鮮人は厳しい労働条件どころではなく迫害がひどかったので、そのことを訴えたかったのだと思います。ですから、私はこれは評価して良いのではないかという気はします。もちろん日本人と朝鮮人が殴り合えばそれで良いということではないですが、当時の現状をあからさまに描いた大変珍しい作品だということを認めたいということです。


暗黒時代の文学

 朝鮮では創氏改名が1940年に施行され、そこから第2次世界大戦が終わるまではいわゆる暗黒時代と言われているわけですが、実はその暗黒時代に入る直前の1939年から41年の頃に、朝鮮文学の水準が最も高まりました。雑誌としては、李泰俊や鄭芝溶など九人会のメンバーが中心となった『文章』が1939年から40年まで出されました。評論のほうでは林和などがいた『人文評論』(1939〜41)が有名で、この2つが朝鮮の文学の水準が最高になった時の雑誌です。
 しかし、1941年ぐらいになるとほとんどの雑誌や新聞がつぶされます。これは朝鮮人の雑誌や新聞だけではなくて、日本人発行の雑誌も廃刊になりました。そして総督府の命令で『人文評論』の後継誌として『國民文學』を作らされることになります。これは1941年に始まって1945年5月まで全部で39冊か40冊ぐらい出たと思いますが、朝鮮語や日本語を混ぜて書くというのが出発でした。しかし、結局朝鮮語で発行されたのが2回、あとは朝鮮人の雑誌でありながら全部日本語で書かれています。
 そのほかに、この当時の総合雑誌としては『朝光』や『春秋』が朝鮮語で出ています。ですから、朝鮮語が禁止されて全く無くなったわけではありません。朝鮮で『春秋』は非常に親日的だなどと言いますが、中には小説として現在でも読める物があります。

資料30
親日文学と文学者の創氏改名

 親日という言葉自体はもともと日本と親しいという意味ですが、これに名詞が付き派生語として、親日的、親日派、親日行為、親日分子、親日文学のように使われると、南北どちらでも民族反逆を表す意味が生じます。すなわち、敵に付いて国を売る行為を表す“附逆”という言葉に似た意味合いを帯びます。
 従って、親日文学は日本の政策に合わせて反民族的行為や植民地支配に協力する文学を指すことになります。狭くとらえれば、日本の戦争政策に協力し、朝鮮人と日本人が一体であること(内鮮一体)や朝鮮人も天皇の赤子となること(皇国臣民化)を唱えた文学となりますが、広くとらえれば、内容のいかんにかかわらず、この時代に日本語で書かれた文学がすべて含まれます。
 過去日本の植民地支配の時代に、その支配を支え実際に統治行為を実践した者は皆親日行為をしたことになり、彼らがそのまま解放後も朝鮮の政治を支えたことが過去の歴史の記憶を消し難くし、この言葉を現在も有効にしています。最近では“親日する”のように動詞としても使われるようになってきています。
 また、日本式の戸籍制度の導入による氏名は必ずしも日本式でなくても良かったのですが、多くの文学者が日本式の氏名を採用しました。林鍾国(イム・ジョングク/1929〜89)の『親日文学論』(平和出版社、1966)によると、東文仁(金東仁)、白山青樹(金東煥)、大江龍之介(金文輯)、金村龍済(金龍済)、月田茂(金鍾漢)、金村八峯(金基鎮)、芳村香道(朴英煕)、白矢世哲(白鉄)、香山光郎(李光洙)、牧洋(李石薫)、野口稔(張赫宙)、松村紘一(朱耀翰)、石田耕造(崔載瑞)などの名が見られます。兪鎮午のように従来どおりの人も多くいましたが、李光洙のように両方の名を併用した例もありました。
日本式の名前で発表された例
(左)香山光郎(李光洙)『同胞に寄す』博文書館、1941.1(初版本の表紙)
(右)金村龍済(金龍済)『亜細亜詩集』大同出版社、1942.12(初版本の表紙)


《親日文学》の表と裏

 創氏改名が施行され、いよいよ日本統治も厳しさを増す中で《親日文学》と呼ばれるものが目立ってきます。親日文学を論じることはいろいろと問題があると思うのですが、一応どんなものが親日文学と言われているかをご紹介します(資料30)。
金龍済(キム・ヨンジェ/1909〜94)
出典:『中央日報(1994. 6. 22)』中央日報社
 
金鍾漢(キム・ジョンハン/1916〜44)
出典:金鍾漢『たらちねのうた』人文社、1943
 
 まず、日本語のプロレタリア文学の詩を書いた金龍済(キム・ヨンジェ/1909〜94)ですが、この人は最後は軍国主義、または戦争に協力する詩集『亜細亜詩集』(1942)、『叙事詩 御東征』(1943)、『報道詩帖』(1944)などを出しています。
 また、近代詩の創始者と言われた朱耀翰が詩集『手に手を』(1943)を出しています。この中の「今日にして」と「大君に」は全部短歌で、「勝利の太平洋」はとても空虚な書き方の詩です。
金素雲(キム・ソウン/1907〜81)
(写真右より金素雲、朴泰遠、李箱)著者蔵
 
 それから、金鍾漢(キム・ジョンハン/1916〜44)という詩人は植民地時代の末期に登場したのですが、若くして亡くなりました。この人の詩集としては、日本語の『たらちねのうた』と『雪白集』(いずれも1943)の2つだけが残されました。『たらちねのうた』は彼自身の創作詩集で、『雪白集』は彼の創作と翻訳が半々です。『雪白集』はなかなか装丁も凝った作りの詩集です。彼の「園丁」(1942)という詩はのちに「一枝について」という題名に変わったりしますが、接ぎ木をしてそして実がなるということで、これは明らかに内鮮一体、つまり日本人と朝鮮人がひとつの民族になり得ることを歌った詩です。ただほかの人のように、当時の総督府や日本人の要求に応えて勢いよく、日本と朝鮮は一体になれる、または“大君の”というふうにして天皇を歌っているわけではありません。確かにこれは内鮮一体を歌った詩でありながら非常に穏やかな感じで、高らかに反対を唱えるわけでも、また自分がそれに積極的に参加するでもないという作者の諦念も感じさせる詩です。つまり、親日文学と言っても、作者自身の誠実さが出ていると思うのです。翻訳では金素雲(キム・ソウン/1907〜81)が有名ですが、金鍾漢も金素雲と同じく詩を翻訳しているので、朝鮮人で日本語に詩を翻訳した業績のある人としては、金鍾漢も挙げて良いのではないかと思います。
李石薫(イ・ソックン/1908〜50?)の著書表紙
牧洋(李石薫)『静かな嵐』毎日新報社、1943
 
 親日小説では、李光洙が香山光郎という名前で書いていたのがよく知られていますが、その他に牧洋こと李石薫(イ・ソックン/1908〜50?)の『静かな嵐』(1943)と『蓬島物語』(1945)が挙げられます。『静かな嵐』は「われわれ朝鮮人はどうしたら日本人になれるのだろうか。まだまだ自分たちの努力は足りないし、難しい。われわれは誠実に日本人になる努力をしよう」というようなことが書いてあり、妙な言い方ですがこれも作者の誠実さの伝わる親日文学と言えると思います。
 結果として、金鍾漢と李石薫は、日本人が見る限りそれほど目障りだったり心を傷つけるという抵抗感なしに読める親日文学ではないかと思います。彼ら以上に露骨な書き方をされると、逆に何か妙な感じを与えるのは確かです。それで、この人のものはそういうものよりはわりと抵抗感なく読めるということになるのですが、果たしてそれで良いのかどうか、私は何かこだわりを感じるわけです。
 なぜなら、親日文学の中でも日本人に受け入れられやすい人の作品を読んで「この人たちは気の毒な犠牲者だ」という言い方をするのは、変だと思われるからです。日本では、例えば金龍済や朱耀翰らの詩を見ることによって、いかに日本人が植民地の人々の人間性を失わせるところまで落としたかが分かるという言い方をしますが、私はそういう見方も変に感じます。確かに親日文学は、朝鮮人には触れると痛みを感じる傷痕のようなものです。しかし、プロレタリア文学者からの転向者や親日文学者といった犠牲者を生み出した根源は日本の支配にあります。その加害者の側の日本人が、自分たちの犠牲者の存在を積極的に強調したり、自分たちの反省を高らかに唱えたりし過ぎると、これはもう文学の分野というより犯罪心理学の分野の問題となりかねません。ですから、こういう作品を見る時には、そろそろ別の見方をしなければいけないのではないかと思いますし、誰かが親日の文学を書いたか否かという事実を問題にしても、あまり意味がないのではないかと思います。

■載載瑞(チェ・ジェソ)の「民族の結婚」

崔載瑞(チェ・ジェソ/1908〜64)
出典:韓国民族文化大事典編纂部『韓国民族文化大事典』韓国精神文化研究院、1991
 
 私は親日文学でもう少し違った面も見たいと思います。まず、崔載瑞(チェ・ジェソ/1908〜64)という評論家の書いた小説「民族の結婚」(1945)を取り上げます。「民族の結婚」は日本語で書かれており、もともとは『國民文學』に載りました。彼はこの時代には『國民文學』を主宰していたので、日本に一番協力した悪玉ということで、韓国では大変評判の悪い人です。ところが私が読む限り、「民族の結婚」は非常に不思議な小説に思われます。
 この作品はもともとは駕洛すなわち伽耶(カヤ)国の人間だった金nq信(キム・ユシン)と新羅の金春秋(キム・チュンチュ)の話です。駕洛族は新羅族の人間からいうと異民族で、王室に入れるわけにはいきません。そこで、王室の男と自分の妹を結婚させたい金nq信は計略を立てて、王族の人間であった金春秋と妹を蹴まりの席で接近させて結婚させるという話です。
 これは、内鮮一体を扱った小説だと読まれています。つまりこの小説全体を見ますと、異民族の駕洛族が新羅に同化する話を書いた小説と読めるわけです。新羅は朝鮮で、駕洛族は日本と関係ありますから、日本の血を引いた駕洛族の女と朝鮮の王室の男とが結婚するという話になっているというのが普通は自然な読み方です。
 ところが私が読みますと、これは逆です。新羅は大国で駕洛族を差別している民族ですから、駕洛族が新羅に対して自分たちが差別を受けていた恨みを述べている作品というように読め、これは大きな国である新羅つまり日本に対する、差別を受けている小さな民族である駕洛族つまり朝鮮民族の訴えや恨みを書いた小説ではないかと読めるわけです。巧妙に内鮮一体というカモフラージュをしながら、日本がいまだに差別をしているではないかと訴えていると読み得る小説だと思います。このように、韓国で一番日本に協力したと恨まれている民族反逆者でも、ここまで書いているということを見るべきではないかというのが私の考えです。

■崔秉一(チェ・ビョンイル)の『梨の木』

崔秉一(チェ・ビョンイル/生没年不明)の著書表紙
崔秉一『梨の木』成文堂書店、1944. 12
 
 それからもうひとつは、パンソリに見られるようなユーモアや民族意識、あるいは 『林巨正』に流れているような精神といったようなものはどうなっていったかということで、崔秉一(チェ・ビョンイル/生没年不明)の『梨の木』という本を取り上げます。これは、1944年に出たことに気をつけてください。
 『梨の木』も全部日本語で書いてある小説集で、明らかに1944年に総督府が許可した親日文学ですが、これはとても面白いと思いました。「安書房」という作品には、“バカ”とどなられた朝鮮人が、発音が似ている朝鮮語の“打ち込め”だと思い込いで釘を打ち込もうとする笑いを誘うような場面が出てきます。「山林風景」は、農民たちと区長の密造酒をめぐるとぼけたやりとりが描かれています。また「常会」という現在でもある町内会を舞台にした作品もユーモアに満ちています。『梨の木』の初版は1944年3月で、12月に再版されたのですが、再版本から「常会」の抜粋をご紹介しましょう。

 会が始まるまでなかなか集まらな[か]つた。殆んどが農家で松林と竹薮の間により固まり町名はついてゐても片田舎であつた。班長さんが待ちくたびれて、再び、集まつてない家々を廻つてやつとこさ会が始まつた。七時の予定が九時頃であつた。松林のなかの尼さん、濁酒売りの婦、よぼよぼの腰の直角にまがつたお婆さん、それに、てらてら額の禿げ上がつた老人や、防寒帽を被つた、長い房々したひげの真白い、絵本の中にでも出て来さうなサンタクローズみたいな爺さん、白い喪服に夏の褪色したパナマ帽をのせていやに四角ばつてゐる男、リンコルンみたいなあごひげとあごのそりかへつた百姓さん、昔風の頭に冠をのせた鼻の赤い書堂の先生風情の老人、それから荒くれたその日かせぎの労働者や百姓たちであつた。
 みんな[皇国臣民の]誓詞が唱へられず、ここここと皇国臣民をこばかり続けた。なり、だけはわかつてゐるらしく、が、なーりと変に歌ふような調子でめいめいが尾を引いた。
「なかなか覚えられねえだが、どうすりやええだよ?」
「諺文で書いてもらつたらええだ」
 このやうな人達の集まりだつたから、話は話を咲かせユーモアはユーモアを生み、無知にだまりこくつたり、悠長に時間のみ費やした。かんでくるめるやうに説明しても納得したかどうかわからない。しかし一度具体的な配給のことになると、なかなか座は活況を呈したものでめ[あ]る。

(出典:『梨の木』成文堂書店、1944)



 ここには、日本語も分からず、ましてや皇国臣民の誓いが何だか分かるはずもない村民の姿がユーモラスに描かれていて、大変暗い時代だと言われている戦争末期に書かれたとは思えないほどさわやかな印象を与える作品で、私は非常に評価して良いと思っています。
 こういった読み方は普通とは少し違っているかもしれませんが、古代小説の時代から朝鮮文学に流れているものは、日本統治の最後でも依然として生きていたと見るほうが面白いのではないかと思います。