(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 V 章)


第 V 章 近代朝鮮の詩人たち


近代詩の系譜

 さて今回は小説から少し離れ、近代詩、特に現在韓国で一般の人によく知られ愛唱されている詩を中心に鑑賞します。
 朝鮮では近代に入る前の時代の詩と、現在作られている詩の形式はほとんど関係がありません。散文の自由詩という形式はもともとなかった形です。古い時代で該当するものというと、漢詩と、パンソリでのどをならすために謡われる定型詩である時調(シジョ)でしょう。これらはいずれも政治・文化の担い手である両班(ヤンバン)たちの理念を謳ったものです。
 また、現在韓国で“唱歌(チャンガ)”と呼んでいますが、日本に植民地にされる直前にできたものがありました。その当時新聞に投書された愛国的な内容だったり、啓蒙的な理念を謳ったものが大部分です。例えば、1905年の「学徒歌」は「学生よ、勉強しなさい。怠けてはいけません」という内容の短い歌です。いろいろな学徒歌があったのですが、日本の鉄道唱歌のメロディーで歌うものもあります。漢詩や時調の時代、つまり文化の担い手が両班が中心だった時代を経て近代から現代へ移行する途中に、小説で言うところの新小説に該当するように詩でもその過渡期に唱歌という形があって、それが現在の詩に至る間に橋渡しの役割をしたということです。
 唱歌ではない近代の詩としては、1908年の崔南善の「海より少年に」という詩がありますが、これはバイロンの詩「海賊」の翻案で、まだまだ中身が啓蒙的なものでした。

■朱耀翰(チュ・ヨハン)

朱耀翰(チュ・ヨハン/1900〜79)
出典:朱耀翰ほか編『李光洙全集 別巻』三中堂、1971
 
 本当の近代詩らしい詩としては1918年の朱耀翰(チュ・ヨハン/1900〜79)の「プルノリ」が有名です。そのまま日本語にすると“火祭り”ですが、ここではお釈迦様の誕生日である旧暦4月8日の“ちょうちん祭り”を指します。形式は散文詩ですが、大同江での華やかな祭りの風景と詩人の孤独な心境を重ね合わせて歌ったところに新しさが見えます。
 この詩は1919年創刊の同人誌『創造』に発表されたのですが、ここから近代の詩の形が登場したと言われています。朝鮮にはもともと自由詩の形がなかったのですから、こうした形式の詩は日本から影響を受けて始まったということになります。

■金素月(キム・ソウォル)

金素月(キム・ソウォル/1902〜34)
出典:厳浩錫『金素月論』朝鮮作家同盟出版社、1958
 
注(10) 金億(キム・オク/1893〜1950 ?)
出典:韓国民族文化大事典編纂部『韓国民族文化大事典』韓国精神文化院、1991
号は岸曙。平安道出身の詩人。五山学校を経て日本留学ののち母校の教師、『東亜日報』、『毎日申報』の記者などを務める。創作詩集『くらげの歌』(1923)などの他、朝鮮最初の翻訳詩集『懊悩の舞踏』(1921)でボードレール、ヴェルレーヌなどを紹介し、また『ギタンジャリ』(1923)、『新月』(1924)、『園丁』(1924)などタゴールの翻訳を出した。そのほか、エスペラント語の朝鮮初の紹介者としての功績も大きい。朝鮮戦争の時、北に連れ去られてのち行方不明。
 
 それでは、近代の詩でよく知られたものを取り上げ、原語である朝鮮語のリズムがどうなっているか、そしてそれぞれその詩にどのような問題点、または特色があるかということを紹介し、鑑賞したいと思います。
 まず、南北共に朝鮮の近代詩と言えば金素月(キム・ソウォル/1902〜34)です。少なくとも韓国ではこれまで圧倒的な知名度と人気を持っていて、いろいろな種類の詩集がたくさん出ています。また人気があるだけでなく、さまざまな形で一番多く研究されています。
 金素月の詩はとてもリズミカルで、その中に情緒が込められているというのが特色のようです。その特色がよく表れているのが「つつじの花」(初出1922、1925)と「招魂」(1925)で、ともに彼の代表作です。この2つの詩には“恨(ハン)”と言われている朝鮮でよく話題になる心情が込められていると言われています。
 金素月は李光洙と同じ平安道の出身です。李光洙が勤めていた五山学校に、李光洙の弟子で詩集をたくさん出している文学家の金億(キム・オク/1893〜1950?) 注(10) という人がいたのですが、金素月は金億の直弟子ですから、間接的には李光洙の弟子になります。平安道出身と言うことで、金素月の詩には北の方言が混じっていて解釈が分かれることもあります。「つつじの花」は1922年の発表ですが、今知られている詩は1925年に出た同名の詩集に載っている形のもので、もとのものに比べかなり洗練されています (資料編参照)
 これは別れの詩ですが、果たして女性が男性に対して歌ったのか、男性が女性に対してかということについて、従来韓国では、女性が捨てられて、捨てていく男性に対して歌ったと言われていましたが、北では、男性が自分を捨てていく女性に歌ったのだと解釈するのが一般的だったようです。しかし韓国でも最近は、男性が歌ったと解釈する人も出ています。韓国ではよく詩に曲をつけて歌うのですが、この詩は情緒を込めて歌うリズムが最もよく出ている典型的なものだと思います。
 そして彼の一番の絶唱といって良いのが「招魂」です (資料編参照)。「招魂」はシャーマニズムで、死んだ人の魂を呼ぶことに関係がある内容です。この詩もとても有名です。やはり平安道の方言が少し入っていますから、原文を見ると語尾など標準語とは違います。魂を呼ぶシャーマニズム的な要素を持っていますので、歌曲は大変情を込めた歌い方になります。
 1925年の「山有花」は民謡にある題名を使ったもので、詩としてはそれほど技巧はなくて素朴な感じなのですが、韓国の高校の教科書に載っていて誰でも知っています。この詩も、何人もの作曲家によってさまざまな曲がつけられています。また童謡としてよく知られている詩には「お母さん、お姉さん」(1922)があります。

■韓龍雲(ハン・ヨンウン)

韓龍雲(ハン・ヨンウン/1879〜1944)
出典:崔東鎬編『韓龍雲詩全集』文学思想社、1989
 
資料24 韓龍雲詩集『あなたの沈黙』序文「よけいごと」
出典:韓龍雲『あなたの沈黙』初版本、漢城圖書、1926
 
 金素月と共に日本でも有名で現在韓国でもよく知られているのは、韓龍雲(ハン・ヨンウン/1879〜1944)です。1926年に出された彼の唯一の詩集『あなたの沈黙』は、金素月の『つつじの花』と並んで挙げられる代表的な詩集です。彼の著作は多いのですが、もともとお坊さんということでほとんどが仏教の本です。新小説に当たる小説も書いているのですが文章があまりうまくないのに、この詩集だけが特別で、非常に柔らかい形で訴えてくる文体です。1920年代前半には金億が訳した詩集がたくさん出ており、私は韓龍雲もその影響を受けていると思います。特に『あなたの沈黙』の単語の使い方は、インドの詩人・タゴールの詩を金億が訳した『ギタンジャリ』(1923)、『新月』(1924)、『園丁』(1924)と共通するところが多く見られます (資料編参照)。
 題名にある“あなた”に当たる朝鮮語は“ニム”ですが、日本語で言えば“〜さん”、“〜様”というように使われる言葉です。しかし単独で“ニム”または“イム”と言った時には、古めかしい言い方で言えば“恋人”を指すこともあり、そういった言葉の使い方を全部まとめますと、“自分が慕っている大切な人に呼びかける言葉”と言って良いわけです。慕っている者ですから恋人でも良いのですが、例えば自分の仕えている王様に使っても構わないわけで、日本語では“君(きみ)”にいくらか似ていなくもなく、“あなた”と訳すのが良いかどうか難しい言葉です。
 韓龍雲自身は“ニム”をどのように使ったかということを『あなたの沈黙』の序文に「よけいごと」という形で説明していますので、訳文で引用してみます。なお、ここに出てくる“あなた”はもともと全部“ニム”という言葉が使われています(資料24)
 「あなた」だけがあなたではなく、称えるものはすべてあなただ。衆生が釈迦のあなたなら、哲学はカントのあなただ。バラの花のあなたは春雨なら、マッチーニ(注:イタリアの独立運動をした人)のあなたはイタリアだ。あなたはわたしが愛するばかりでなくわたしを愛するのである。
 恋愛が自由ならあなたも自由であるはずだ。しかし汝らは聞こえのよい自由の細やかな拘束を受けないのか。おまえにもあなたはいるのか。いるならあなたではなくおまえの影である。
 わたしは日が暮れた野原で帰る道を失いさ迷う幼い羊が称えたくてこの詩を書く

著者

となっていますので、“ニム”という言葉には詩人・韓龍雲の考えでとらえると、“自分にとって非常に大切な者”という意味が込められていることが分かります。
 実は1919年の三・一独立運動の時の独立宣言書に33人が署名しましたが、そのうちの仏教界の代表は韓龍雲だったという事情を考えると、朝鮮の人間にとってこの“ニム”は“失われた自分たち民族の国家”を指すと取ることもできるわけです。つまりこの詩集は、全体を通して自分のところから去ってしまった“恋人”に対して呼びかける歌になっていますが、その恋人とは民族であるという解釈が成り立つわけです。
 ところで最近の韓国では、韓龍雲が従来ほどあまり大きく取り上げられなくなったようです。この詩自体についても、もう民族の詩ではなくて恋愛の詩として読んで良いのではないかという解釈が出るぐらいになり、韓国が90年代になってからだいぶ変わってきたことが分かります。その意味で、民族というものを一番中心に据えて、教育や思想を考えていた時代が少し変わりつつあるのかなという気がします。

■鄭芝溶(チョン・ジヨン)

鄭芝溶(チョン・ジヨン/1903〜50?) 著者蔵
 
資料25
北で取り上げられる詩人

 近代詩の詩人も南北での取り上げ方にはかなり差がありました。
 例えば、北で1957年に出された『現代朝鮮文学選集(2)』に収録された詩人は、金素月、李相和、趙明煕、金昌述、柳完煕、金ジュウォン、nq雲、朴八陽、朴世永であり、最初の3人は韓国でもお馴染みでしたが、あとはプロレタリア文学の系統でした。
 ところが最近の『1920年代詩選(1)(2)』(1991〜92)には、申采浩、韓龍雲、朱耀翰、李光洙、金炯元、金東煥、呉相淳、金東明、卞榮魯、李一、李章煕、白基萬、リュウ・ドスン、カン・ヨンギュン、ピョン・ジョンホ、金素月、金億、金明淳、洪思容、盧子泳など、韓国でよく知られていても北では従来取り上げられなかった詩人がかなり多く収録されています。おそらく1930年代以後の部についても同様の傾向になるだろうと予測されます。金日成大学の教科書『近代現代文学史』(1991)のように、批判的ではあれ、かなり好意的に沈薫、鄭芝溶、尹東柱などが登場している例もあります。
 従来韓国で代表的な近代の詩人と言えばとにかく先ほどの2人になりますが、80年代以降、現在の韓国ではだいぶ様子が変わリ、それまであまり紹介されることのなかった北に行った詩人も解禁されているので話題となります (資料25)。その中で第1番目の詩人といえば、「故郷」(1932)、「海(2)」(1930)、「琉璃窓(1)」(1930)などの作者、鄭芝溶(チョン・ジヨン/1903〜50?)だと思います。鄭芝溶の詩集は現在でもベストセラーです。
 この人はとても愛読者の多かった詩人で、詩集としては『鄭芝溶詩集』(1935)と『白鹿潭』(1941)が有名です。禁止されていた時代でもあちらこちらで読まれていました。彼の詩は、中身があるというよりは言葉の技巧と比喩が大変優れており、表現の新鮮さで訴えるところがあります。ただし、それは金素月の場合とは全然正反対で、感情を込めるということではなくて言葉の技巧そのものの新鮮さです。
 彼の詩の中で最も愛唱されているのは「郷愁」(1927〜35)です (資料編参照)。彼はモダニズムの詩人で技巧的だと言われているのですが、この詩で見る限りそうではなくて、やはり金素月のような何か民族詩人で、情緒を歌ったように見えます。いくつかの言葉の解釈がなかなか難しく、中には解釈のしにくい言葉が何カ所かあります。
 私が調べた結果では、現代語の中に見つからない古典の言葉を意識的に持ち込んでいると思います。従来韓国では、鄭芝溶は言葉の感覚に優れた詩人ですから現代語の中のある言葉の音を変えて使うこともあると言われていたのですが、私の感じではそうではなく、古典以外には一切実例の見つからない単語を使った場合もあるのです。例えば、最後の連で使われている“ソックン”(まばらな、の意)という言葉ですが、これは15世紀の杜甫の詩を対訳した『杜詩諺解』という古典の中にしか載っていない単語です。それに気がつきますと、それ以外の言葉もこの文献の中に見つかるわけです。
 従来は遠くにいて自分の故郷をしのぶ自然な感情を歌った詩であるという解釈でしたが、古典でしか使わない単語ををわざわざ使ったとすれば、これは非常に技巧的な詩になります。それだけ意識的な技巧を使っていながら自然に受け取れるというところに、モダニストであった鄭芝溶の優れたところが発揮されたと見ることができるのではないかと思います。

■金起林(キム・ギリム)

金起林(キム・ギリム/1908〜50?)
出典:金起林『道−詩・随筆・詩論』キップンセム、1992
 
 次は、鄭芝溶と同じく北に行ったということで長い間禁止されていた金起林(キム・ギリム/1908〜50?)を紹介します。彼は日本に留学していた経験もあります。鄭芝溶同様、金起林もモダニストの詩人として有名ですが、彼が戦前に出した詩集『太陽の風俗』(1939)の中にある「海と蝶」(1939)が今の高校の教科書に載っています (資料編参照)。彼の場合は比喩が技巧的で、心に訴える情緒的な詩とは違って頭で解釈する詩だという気はします。中身の深さがなくて詩として優れているかどうかは分かりませんが、理論家としていろいろな本を書いており、参考になることがたくさんあります。

■李箱(イ・サン)

李箱(イ・サン/1910〜37)
出典:李御寧編『李箱小説全作集 2』甲寅出版社、1977
 
 次に、日本でもわりと知られている李箱(イ・サン/1910〜37)ですが、この人はダダイスム、またはモダニズムの詩人として有名です。彼の詩を読むにあたっては難しいところがあって、例えば、李箱は最初に詩を日本語で書いており、そのあとになってから朝鮮語の詩や小説を書いているので、彼の詩はその小説と一緒に読まないと分からない部分が非常に多いと思います。もちろん詩だけを楽しんでも良いのですが、とても技巧的に見えます。「烏瞰図」(1934)という、一見すると鳥瞰図の誤植と思いかねない題名の一連の詩には彼の技巧が典型的に表れています (資料26資料編参照)。韓国の学生で卒業論文に李箱を扱う人が多くいますが、もしかしたら、この技巧的で奇妙な一見意味あり気なところが若者の感覚に受けるのかもしれません。
 李箱は変わった人物として扱われますが、実際はそうではなかったと思います。彼は建築を勉強していたのですが、東京に来て半年も経たない1937年、27歳の若さで結核のために東京で死んでいます。その時に看取った人が、同じく日本にいた金素雲だったようです。

資料26
新聞に掲載された李箱「烏瞰図」の詩第4号、第5号

出典:『朝鮮中央日報(1934. 7. 28)』朝鮮中央日報

■白石(ペク・ソク)

白石(ペク・ソク/1912〜?)、青山学院在学当時
出典:宋俊『南新義州柳洞朴時逢方―詩人白石一代記 1』チナ、1994資料26
 
 植民地時代の詩人としてぜひとも紹介したいのが、最近詩の愛好家の間で特に人気が高まっている白石(ペク・ソク/1912〜?)と李庸岳(イ・ヨンアク/1914〜?)です。特に白石のファンが多く、全集も何種類かありますし、ファンが書いた伝記も出ています。それから最近は、1930年代に白石の愛人だったという人が書いた白石に関しての手記まで出るなどブームを呼んでいます。
 私も以前、白石の詩の注釈を書いたことがあるのですが、平安道の方言が強いものですから韓国人でも言葉そのものが分からないわけです。それで読めないのではないかと思われていたのですが、現在は詳しい注釈書が出ています。ただ、それでも難しく、さらに風俗についても言葉についてもいろいろ研究しなければいけないと思います。
 白石は、「狐谷の一族」(1935)のような朝鮮の田舎の土俗的な風景を全部方言で描いたものが特色と言われています (資料編参照)。一方「秋日山朝」(1935)のように、おそらく日本の俳句から影響を受けたと思われるような短い形式の中に心象を映したものもあります。また、白石は流浪の生活をしていましたので、その孤独さを表した詩がいくつかあります。民族的な心情を描いた詩は見つからないのですが、唯一の例外が「八院(西行詩抄3)」(1939)です。これは、その頃の貧しい朝鮮の人のことが少し出ており、白石の詩としては珍しいものです。いずれにしても白石は、いろいろな意味で深く読み込める可能性のある人ですが、今のところ北では全然言及されていません。

■李庸岳(イ・ヨンアク)

李庸岳(イ・ヨンアク/1914〜?)の著書表紙
李庸岳『オランケの花』雅文閣、1947
 
 そして、南北で共に扱われている詩人と言えば李庸岳(イ・ヨンアク/1914〜?)です。彼の詩には、日本の植民地時代に故郷を失って流浪して歩く民衆の姿を描いたものが多く、訴える力もあります。特に、家を追い出されて流浪の末に行方知れずになるというようなところに焦点を当てています。1937年に発表された「北の方」には、そういったことをまるで序文のようにして書いてあります。
 また「オランケの花」(1939)は、みんなちりぢりに散ってしまっていなくなってしまうその様子を描いたもので、彼の代表作と言われています (資料編参照)。“オランケ”は、もともと中国でnq族の一部を指す“兀良哈”または“烏梁海”からきている言葉で、朝鮮人から見ると“北のほうの野蛮人”という意味ですが、“オランケの花”と言えば“スミレの花”のことになります。
 それから、「古びた家」(1938)も彼の代表作で、追われてしまって誰もいなくなってしまった空き家の様子を詩にしたものです。いずれにしても、植民地時代の朝鮮の民衆の悲しみを歌った詩としては、李庸岳の描き方には独特なものがあるのではないかと思います。
 最近は韓国でも北に行った詩人の作品を自由に読めるようになりましたが、その中では断然白石が人気があり、そして愛好家の間では李庸岳の人気が高いようです。また、鄭芝溶は非常にポピュラーな人気があります。植民地時代の詩人として、李庸岳と白石は、鄭芝溶と併せて記憶して良いのではないかと思います。

■李陸史(イ・ユクサ)

李陸史(イ・ユクサ/1904〜44)
出典:金容誠『韓國現代文學史探訪』国民書館、1973
 
 またその他に、日本でも有名で韓国でも人気がある詩人というと李陸史(イ・ユクサ/1904〜44)と尹東柱(ユン・ドンジュ/1917〜45)の2人で、尹東柱は日本でもNHKで取り上げられたこともあるなど、広く紹介されています。どちらも民族詩人として日本に抵抗した民族思想の持ち主です。
 李陸史は両班の家柄で、朱子学者である李退渓(イ・テゲ/1501〜70)の14代目の子孫です。彼の詩は「絶頂」(1940)に代表されるように、思想的な内容を込めた理念的な詩なので独特な堅い感じを与えます (資料編参照)。その理念的なものが、おそらく古い時代、つまり漢文を書いていた時代の精神を引き継いでいるのだと思います。朝鮮の詩人の場合には、叙情詩を書いている人と理念的な詩を書いている人では出身が違うのではないかと思われます。どうやら両班出身の詩人は理念的な詩を書くようで、叙情詩を書く詩人は絶対に両班の家系ではないと断言できそうです。 

■尹東柱(ユン・ドンジュ)

尹東柱(ユン・ドンジュ/1917〜45)
出典:金容誠『韓國現代文學史探訪』国民書館、1973
 
 尹東柱(ユン・ドンジュ/1917〜45)の詩は柔かい感じがしますが、これは尹東柱がキリストの信仰を持っていたということがあり、おそらくその祈りの詩としての精神がそこに宿っているのではないかと思います。
 「懺悔録」(1942)はその祈りが内省的によく表れた詩です (資料編参照)。実は、李陸史も尹東柱も存命中には詩集を出せませんでした。今は詩集が出ていますが、詩の数は多くありません。しかし、どちらも良い詩だという気はします。

徐廷柱(ソ・ジョンジュ/1915〜 )
出典:『作家世界 20号』図書出版世界社、1994(春号)
 
 それから、植民地時代に詩を書いて今も好かれている詩人としては、徐廷柱(ソ・ジョンジュ/1915〜 )が挙げられます。彼は現在まだ存命ですので現役として省きますが、この人も面白い詩人です。全斗煥時代には政権べったりで嫌われていたのですが、やっぱり詩は良いということで今はまたみんなに好かれているという人です。本人の人柄もあるのでしょうが、韓国では政治的にそのようなことがあっても許してしまうということで、そのあたりは日本人とは違うなという気がします。