(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 X 章)


第 X 章 1980年代の文学


内面化されるさまざまな問題

 1980年代は、1979年10月の朴大統領暗殺と全斗煥らによる12月12日の軍事クーデタをきっかけにした民主化運動の急速な高まりで始まりました。しかし1980年5月には厳戒令が布かれ、それに反発した民衆が峰起するという事態が起きます。いわゆる光州事件と呼ばれているもので、それを鎮圧するために軍隊が出動し多くの犠牲者が出ました。そして、このあと全国的に凄まじい騒乱状態が続きます。結局最後は 1987年 6月29日に民主化宣言がなされ、文民政権へ向けての選挙が行われて、それが現在へと続いているわけです。しかしながら、80年代というのは解放直後と同じようにさまざまな可能性がはらまれた激動期に見えます。
 解放直後と似ているとは言っても、性格が少し違っています。つまり植民地時代というのは異民族であった日本による支配ですから、外の勢力によって朝鮮の民族が押えられていた時代です。それから解放直後から48年に分断が固定化する時期というのは、今度は国際関係による冷戦によって南北が分裂するということで、これもやはり自分たちの外部によって影響されてきました。そして朝鮮戦争の場合は、分断した南北間の戦争ということで、確かに国際関係の影響ではありながら同じ民族同士の戦争ということになりますから、完全に外部の主導とも言いきれない要素を持ち始めたわけです。
 朝鮮戦争後は、今度は韓国の中での政治的な混乱ということで、外的な対決という要素が国内の内的な対立という要素の方に移ってきているということが言えるのではないかと思います。ですから混乱は混乱であっても、それが次第に自分たち自身の問題として内面化されてきたということがあります。
 文学のほうで見ても似たような変化が起きていました。つまり、もう外からの問題として責任を転嫁できない、いろいろな問題が現れていたような気がします。一方、文体など文学の水準がとても高まったのはむしろ70年代で、おそらく80年代よりも70年代のほうが着実であった感があります。しかし80年代は、例えば民主化運動や韓国では解放直後にしか見られなかった労働運動、および社会主義や共産主義関係の本が溢れるほど出版され、日本では全然見向きもされないような本まで全部翻訳された時代であったわけです。ですから、政治的には弾圧が荒っぽく厳しいというふうに見えながら、思想的には『資本論』からアナーキズムの叢書まであらゆる出版物をすべて読むことができた時代ということになります (資料33)

資料33
韓国における出版点数の推移と分野別出版点数

出典:大韓出版文化協会
点数 部数 1点当たりの平均部数 平均定価(ウォン)
1981 13,618 100 50,786,989 100 3,049 100 4,027 100
1982 17,615 129 62,655,068 123 3,026 99 4,242 105
1983 18,588 136 64,596,721 127 3,134 103 4,115 102
1984 19,113 140 69,951,225 138 3,333 109 3,635 90
1985 19,756 145 78,469,122 155 3,407 112 4,528 112
1986 22,132 164 100,631,777 198 3,878 127 4,401 109
1987 22,425 165 104,335,822 205 4,067 133 4,536 113
1988 22,336 164 109,747,087 216 4,349 143 5,043 125
1989 20,745 152 120,875,683 238 5,078 167 5,346 133
1990 22,903 153 129,611,007 255 5,797 190 5,932 147
1991 22,769 167 134,616,495 265 5,912 194 6,901 171
1992 24,783 182 136,752,198 269 5,517 181 7,191 178
パンフレット、政府刊行物、研究機関の出版物、定期刊行物、学校教科書は含 まない。
ウォン:US$=800:1
イタリック体の数字は各項目の1981年を100とした時の割合(%)

総記 哲学 宗教 社会
科学
純粋
科学
技術 芸術 語学 文学 歴史 児童書 学習
参考書
合計
1981 281 403 1,040 1,766 349 1,305 931 843 2,664 392 1,484 2,160 13,618
1982 358 795 1,271 2,249 391 1,499 966 979 3,659 533 2,523 2,392 17,615
1983 466 778 1,292 2,669 306 1,490 1,093 762 3,899 876 2,515 2,442 18,588
1984 462 510 1,399 2,727 408 1,637 869 926 4,326 663 2,339 2,847 19,113
1985 295 337 1,438 2,962 352 1,607 1,275 997 4,478 878 2,246 2,891 19,756
1986 327 581 1,549 3,205 309 1,470 1,123 944 4,219 1,028 3,570 3,807 22,132
1987 442 635 1,582 3,469 445 1,777 1,148 1,154 3,937 799 3,234 3,803 22,425
1988 424 570 1,679 3,408 418 1,965 981 988 4,229 949 2,723 3,902 22,236
1989 383 471 1,569 3,077 222 1,806 940 1,127 3,435 869 2,666 4,180 20,745
1990 197 621 1,563 3,142 328 1,761 983 882 3,646 657 2,344 4,779 20,903
1991 303 565 1,921 3,276 352 2,207 1,113 1,034 4,373 647 3,213 3,765 22,769
1992 232 608 2,044 2,874 328 2,943 1,130 938 4,654 953 3,925 3,925 24,554



■金準泰(キム・ジュンテ)の「ああ、光州よ! われらの十字架よ!」

 80年代のいろいろな文学の話題を話す前に、光州事件が鎮圧された直後に発行停止が解かれた 『全南日報』に最初に載った 金準泰(キム・ジュンテ/1941〜 )という詩人の 「ああ、光州よ! われらの十字架よ!」を紹介します。1980年5月、発行停止が解かれて最初の新聞を印刷する直前に依頼されて書いたもので、それを咄嗟に刷って配ったといういわくつきの詩です。現在でも詩集に入っていますが、光州事件後の最初の詩ということになります。
ああ、光州よ無等山よ / 死と死の間で / 血の涙を流す / 我等の永遠なる青春の都市よ // 我等の父はどこに行ったのか / 我等の母はどこで倒れているのか / 我等の息子は / どこで死にどこに埋められたのか // 我等の可愛い娘は / またどこで口を開けたたまま横たわっているのか // 我等の魂はまたどこで / 裂かれ散り散りにかけらとなったのか
というふうに始まります。そして、夫のことが気づかわれ家から出て犠牲になり死んだ妻の語りを途中に入れています。
私はあなたによくしてあげたかったのです / ああ、あなた! / ところで私はあなたの子供を孕んだ身で / どうして死んだのですか。あなた! / すいません、あなた! / 私から私の命を奪ってゆき / 私はまたあなたの全部を / あなたの若さあなたの愛 / あなたの息子あなたの / ああ、あなた! 私がけっきょく / あなたを殺したのですか
自分の肉親というものを素材にしながら訴える力を増す時の詩の書き方です。既に見た林和の詩と共通する傾向がここにも出ていると思います。

《反体制文学》と《労働者文学》

資料34
漢字の名前とハングルの名前

 朝鮮人の名前は漢字が原則でした。族譜と呼ばれる一族の系譜に載る名前には規則があって、同じ世代は名前の内の1字を共有し、これを行列字と言います。行列字は世代ごとに1字目、2字目と交替し、さらに木火土金水の順に循環します。例えば、3代の名が淳逸−東権−炯俊となり、淳、権、炯が行列字となるなどです。
 ところが最近は、金マリアのような洗礼名でなくとも、漢字にとらわれずハングルで名前をつけることが多くなりました。また漢字の名でもハングルで表記することが多く、もとの漢字が分からないことが多いだけでなく、漢字で表記するとイメージが違って感じられます。
 『第三世界の姓名』(明石書店、1994)によれば、「ハングル教育の徹底と、1970年代から公文書でのハングル表記が制定されたため、現在、韓国人姓名のほとんどは漢字名ではなく、ハングルで記されるようになっている。姓の届出には漢字が必要であるが、名前では漢字に代えられない純ハングルも認められている。」ということです。
 なお、北では漢字表記を廃止しているので、すべてハングル表記です。
 その80年代に起きたさまざまな問題にからんで、《反体制文学》や《労働者文学》というのが出てきたのはこの時代が初めてだと思います。労働者文学は、働いている人、労働者や農民であった人間が作品を書くということです。
 その中で一番有名になったのは、現在刑務所に入っている パク・ノヘ(1956〜 ) です(資料34)。彼が1984年に出したのが 『労働の夜明け』 という詩集です。労働者の問題や自分たちの生活を描いているのですが、作品の質はともかく、当時の状況の中で受け入れられました。
 『祖国はひとつだ』(1988)を書いた 金南柱(キム・ナムジュ/1927〜94)も有名です。政治に関係あるこれらの文学作品は、日本で必ず紹介されていますので、今回は詳述しないことにします。

タブーを扱う小説の登場

 70年代から80年代にかけて大きく変わったのは、朝鮮戦争のあとずっと続いていたタブーを全部表に出して扱えるようにしてしまったということです。ですから、政治的には厳しい時代なのですが、実際にはそれを全部跳ね返して文学活動が行われていたということです。具体的には 李泰(イ・テ)、本名・李愚泰(イ・ウテ/1923〜97)の、南北の分断の中でのパルチザンの運動を扱った手記 『南部軍』(1988)が出ました。

イ・チャンドン(1954〜 )
出典:イ・チャンドン 『韓国小説文学大系 86』 東亜出版、1995
 小説として有名なものでは、大河小説で紹介した 趙廷来の 『太白山脈』、それから 李炳注(イ・ビョンジュ/1921〜92)の1979年の作品で 『智異山(チリサン)』があります。朝鮮戦争で逃げられなくなった人が結局パルチザンとなって最後は全滅する実際の歴史が扱われているわけです。それ以外のものとしては、林哲佑(イム・チョルウ/1954〜 )の 「父の地」(1984)イ・チャンドン(1954〜 )の 「焼紙」(1985)が注目できると思います。
 「父の地」は、偶然に畑を掘っていたら昔の人の遺骸が出てきたことで自分たちの親族が北へ逃げたこととか虐殺された昔のことを思い出して、南北の自分たちの悲劇というものを見直すという内容です。それまではそういう思いを描くこともタブーだったのですが、文学作品として出せるようになったわけです。文学的に派手なものではありませんが、作品としては非常にしっとりとしたものだと思います。
 また70年代から活躍し始めた 朴婉緒は、女性としては一番力量のある作家ではないかという気がしています。朴婉緒は80年代になると、それまでの少し皮肉の利いた社会風刺のものから非常に深刻な小説を書き出すようになります。つまり、作家自身の朝鮮戦争の体験が書かれるようになってから変化しています。朴婉緒の「母の杭」(1部・2部/1980・81)というのは3部作で、1991年に第3部が発表されましたが、朝鮮戦争の犠牲になってしまった兄弟とか母の悲しみなどを書いており、朴婉緒としては大変深刻な小説になっています。実は、朴婉緒は80年代の半ばに自分のご主人ががんで亡くなり、それから息子さんが事故で亡くなるというふうにして、結局個人的にもとても深刻な思いをしていますので、そういうものも含め、50年代からを振り返った深みがある小説を書いているのかもしれません。

金源一(キム・ウォニル/1942〜)
出典: 『作家世界 9号』 図書出版世界社、1991(夏号)
 金源一(キム・ウォニル/1942〜)『火の祭典』(1983)とか 『冬の谷間』(1987)もやはり朝鮮戦争の時の話です。『冬の谷間』というのは、韓国の軍隊が作戦上ある村の人たちを皆殺しにした事件を扱っています。韓国の軍隊、または韓国の政府としては絶対に伏せておきたい話、つまりタブーだったわけですが、その事件で生き残った1組の夫婦から話を聴いて小説にしたというものです。
 南北の分断についての小説はあまりありませんが、日本でも翻訳されている 黄皙暎の 『武器の陰(上・下)』(1985、88)はベトナム戦争を扱ったものです。それから 尹静慕(ユン・ジョンモ/1946〜 )も従軍慰安婦を扱った 『母・従軍慰安婦』(神戸学生・青年センター、1992)が日本で紹介されている作家ですが、彼女の 「夜道」(1985)は光州事件を扱ったものです。



李文烈(イ・ムンニョル/1948〜 )
出典:李文烈 『金翅鳥』 東西文化社、1987
資料35
韓国の文学賞

 文学雑誌がかなり多いところだけに文学賞も相当多く、賞金の額も高いようです。
 解放後の代表的な文学賞としては思想界社の主催する 《東仁文学賞》が1955年から始まり、その当時の力量ある作家を鼓舞してきました。東仁とは、近代文学の担い手だった 金東仁の名にちなんでいます。金聲翰(1955)、孫昌渉(1958)、南廷賢(1960)、金承nq(1964)、崔仁勲(1964)、李清俊(1966)など実力のある作家が受賞し、賞の権威を高めました。雑誌 『思想界』の廃刊で一時中断していましたが、現在は朝鮮日報社が引き継いでいます。
 また、雑誌 『現代文学』を発行している現代文学社の主催する 《現代文学新人賞》も1955年に始まりましたが、現在は 《現代文学賞》と名を変えて引き継がれています。
 文学賞を人気作家に与え商業主義と結び付いたのが、1977年から始まった文学思想社の 《李箱文学賞》です。李箱は有名なモダニズムの作家の名ですが、雑誌 『文学思想』初代の主幹だった 李御寧は学生時代に 李箱に関する論文を書いたことのある評論家でもあり、1972年の創刊号の表紙も 李箱の肖像画を使うなど、李箱を高く評価していたようです。文学思想社は毎年受賞作と候補作を1冊にまとめて 『李箱文学賞受賞作品集』として発行していますが、1年間の話題作を手軽に読めるということで常にベストセラーとなっています。従って、この賞には営業上 「該当作なし」の年があり得ません。
 以上は短篇が対象ですが、長編を対象としたものに民音社 『世界の文学』主催の 《今日の作家賞》やムナクトンネ社 『ムナクトンネ(文学の街)』主催の 《ムナクトンネ小説賞》などがありますが、一般的に最近は商業主義がかなり目立っているようです。

時代を代表する2人の小説家

■李文烈(イ・ムンニョル)

 朴政権が推し進めた近代化によって実際の生活そのものが変わりかけているということを、70年代に小説から読み取らせてくれたのは 崔仁浩だったわけですが、80年代ということになると 李文烈(イ・ムンニョル/1948〜 )だと思います。今日本で一番紹介されている作家ですが、もしかしたらこの人が韓国の80年代を代表する作家かもしれません。小説には政治的なテーマを扱うものと、崔仁浩のような生活のテーマを扱うものがあると思うのですが、李文烈はその中間になるでしょう。
 李文烈の「金翅鳥」(1982)という短編を読んだ時にはちょっとびっくりしました。1982年に《東仁文学賞》をもらっているのですが (資料35)、この作品は日本の統治時代の前後を背景に、書道家であり画家である芸術家とその弟子との間の葛藤を書いたものです。主人公は芸一筋に生きるという設定であり、韓国の小説でそういうものが扱われるというのは非常に珍しく意外で、これはまさに日本の文学に近いのではないかと思いました。
 ただ 李文烈の特色として、この 「金翅鳥」の場合もそうですが、過去の画家の話だとか、絵に関しても筆の種類だとかいろいろな専門用語がふんだんに出てきます。どうも 李文烈という作家は、どの作品にも難しい言葉をいっぱい使ってみせるというような傾向が強く、本当に作家としての正道をいっているかどうかというのは疑問になるような感じがします。しかし、この当時の学生運動に参加する大学生なり若者には大変に受けました。彼はギリシャ語で題名を付けてみたり小出しに知識をちらつかせたり、今から見るとちょっとそれはどうかなと感じますが、当時の学生はそういうものに魅力を感じて、とても一生懸命になって読んでいたようです。そこに80年代の雰囲気というのが出ていたのかもしれません。
 1984年の 『英雄時代』李文烈一家の話ですが、確かにこれは80年代でなければ書けなかった小説だと思います。彼の父親というのは実際にパルチザンとして北に行ってしまった人で、そのお陰で80年代まで続いていた連座制によって彼の一家というのは非常に苦しい思いをしたらしいのです。旅行もできず、外国はもちろん行けない、それからいろんな面で制約を受けるわけです。李文烈も正式に学校を卒業していません。人一倍自尊心は強かったはずですが、そういうところで辛い思いをしたのではないかという気がします。『英雄時代』は、父親が北に行ったあとの家族の苦難というのが大変よく描かれている迫力ある小説です。

梁貴子(ヤン・グィジャ/1955〜 )
出典:金治洙ほか編 『我らの時代 我らの作家 26』 東亜出版社、1987

■梁貴子(ヤン・グィジャ)

 崔仁浩と同じように、韓国の社会が変わりつつあるということを描いた作家は 梁貴子(ヤン・グィジャ/1955〜 )でしょう。連作小説 「遠美洞(ウォンミドン)の人々」(1986)はよくできた小説だと思います。ウォンミドンというのは架空の新興住宅地の名前ですが、その街の人たちの生活を生き生きと描いています。人々の生活のありさまを描いているということで、日本の統治時代に書かれた 朴泰遠の『川辺の風景』の類です。ウォンミドンのモデルは、ソウルの西方・仁川(インチョン)の少し手前にある富川(プチョン)という新興住宅地です。富川には遠美洞という地名が実際にあります。新興住宅地で暮らすそれぞれの人たちに焦点を当てながらちょっとユーモラスに書いたもので、とても好感が持てる小説でした。ここに出てくる80年代の風俗は今では古いものになってしまいましたが、そのことから韓国の生活の変わり方が大変激しいということが逆に分かります。ただこれは新しい風俗を描いている点は良いのですが、この作家自身は内面的な分析をするとかそういうことにはちょっと向かないのではないかという気がしました。90年代になってからジレンマを感じて悩んだようで、最近は少し深刻な作品を書くようになってきています。



ト・ジョンファン(1954〜 )
出典:ト・ジョンファン 『花葵のあなた』実践文学社、1986

若者たちのベストセラー詩集

■ト・ジョンファンの『花葵のあなた』

 80年代にはベストセラーになった詩集が2つあります。そのひとつが1986年に出た 『花葵のあなた』、朝鮮語で 『チョプシコタンシン』 という詩集です。この詩を書いた人は ト・ジョンファン(1954〜 ) という学校の先生だったのですが、非常にセンチメンタルな書き方で、不治の病で死んでいく奥さんに対して自分たち2人のこの人生というものが何であるかということを訴えかけており、1冊が全部それで占められている詩集です。これがすごいベストセラーになりました。この詩集を出した実践文学社というのは反対制の出版社なのに、この詩集で利益を上げたようです。

ソ・ジョンユン(1957〜 )
出典:ソ・ジョンユン 『ひとり立ち』 チョンハ、1987

■ソ・ジョンユンの『ひとり立ち』

 それからもうひとつ、それよりあとにベストセラーになった詩集が ソ・ジョンユン(1957〜 )の『ひとり立ち』です。これは、朝鮮語で 『ホルロソギ』というのですが、1987年初版で、たった半年で2万部も売れ、現在でもまだ売れています。その当時、詩集が出る前からあちらこちらの喫茶店には 「ひとり立ち」の詩が貼ってあって、みんなその詩集がどこで出るのかと騒いだという伝説付きです。
 「ひとり立ち」はまず、「二人が会い立つのではなくひとりで立った二人が会うのである」 とあって、
待つことは / 会うことを目的としなくても / よい。/ 胸が痛ければ / 痛いままに、/ 風が吹けば/ うなじを高く挙げながら、なびかせる / かすかな微笑 // どこかにいるはずの / 私の片割れのために / さまよっていた多くの放浪の日々。/ 生まれてからすでに / 誰かが定まっていたとすれば、/ いまではその人に / 会いたい。
というふうに始まるのですが、確かに青春時代の若者の気持ちに即した歌い方をしています。文学に関心のある人たちは、ベストセラーになったこの2つの詩集をどうも馬鹿にしていて、特にこの 「ひとり立ち」に対しては、あんなものは詩ではないと言って見ようともしませんでした。確かに詩として優れていないかもしれませんが、非常に面白い特色がいくつかあるという気がします。
 なぜかというと、例えば3連目の終わりに
微笑をたたえ / 諦めるほかは…… / あぶなっかしく掴んでいるものどもが / 千々に壊れてしまったある日、私は / 寂しい後ろ姿を見せて / 戻っていった。
とあるのです。「寂しい後ろ姿を」 という台詞は、尹東柱の有名な詩 「懺悔録」を思い起こさせます。また 「千々に壊れてしまった」 というのには、金素月の 「招魂」の中の「千々に砕けてしまった名よ!」というフレーズが透けて見えます。それから4連の
誰かが / 私に向かって近づいてくると / 私はぎくりと後ろにあとずさりする。/ そうしてその人が / 私から遠ざかっていく時には / 足をどんどん踏み鳴らして手招きする。// 会う時にすでに / 分かれる準備をする私達は、/
と続いていくところは、韓龍雲の 「あなたの沈黙」 という詩を連想させますし、他にも多分私が知らないものも入っているのではないかと思うのです。ですから、この詩集が若者に受けたそのポイントは、自分たちに馴染みのある言葉があちこちにちりばめられていたからではないかとも思われるのです。
 『ひとり立ち』 という詩集は確かに新しいのだと思います。1987年の韓国は、いよいよ混乱が収拾される時期です。民主化宣言が出され、デモがやっと収まるその時です。韓国というのは政治的にも経済的にもいよいよひとり立ちしてやっていかなければいけない、そのことが個人のレベルでこのような形で出てきたのだと思われます。そういう意味でいくと、この詩の内容はともかくとして、あの激動の中で犠牲者はいっぱいいたにもかかわらず、この時代の若者が相当疲れていたという気がします。そんな若者たちが、一方では涙を流す 『花葵のあなた』のような詩集に流れ、そしてもう一方では、ある点で新鮮な感じで自分たちは自分たちでいくんだということを歌った 『ひとり立ち』のような詩集にも流れたということではないかと思います。この2冊は、先ほど紹介した労働者文学の パク・ノヘの詩集を買った人とは全然違う層の人たちが買っているはずです。『花葵のあなた』のほうは若い学生というよりは少し年齢が上の女の人たち、『ひとり立ち』は高校生か大学生の若い人たちの中で売れていたということですから、韓国社会があれほどの激動期であっても、その中でひとつの別個の若者文化が生まれたというか多様化を見せていたということのしるしではないかという気がします。


民主化宣言後の文学界

越北作家の全面解禁

資料36
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 この時代には本当にさまざまな本が出版されたわけですが、そういった状況の中でもちろん北に行った作家たちの本がどんどん出され、その動きがついに政府を動かし、作品が解禁されます。
 1987年の10月の新聞には、これはまだ解禁が全部行われていなかった時ですが、「解禁図書431種」という記事が掲載されています。多くは外国の左翼関係・思想関係の翻訳書です。無条件に持ち込み禁止の代名詞だった岩波書店や未来社とかの本もこの時に解禁されました。北のものも60年代から話題になっていたのですが、同じ時のリストに「未解禁図書」とあって、北に行った人たちのものはまだ禁書扱いであると出ています。
 それが正式に解禁されるのが次の年です。1988年の2月に、まず詩人の 鄭芝溶金起林が、そして夏になるとほぼ全面的に解禁され、7月の新聞各紙にその記事が掲載されました (資料36)。ただし、『林巨正』の作家・洪命熹李箕永、韓雪野、趙霊出ともう一人、白仁俊(1920〜 )という詩人の五人だけは北で政治的な要職に就いていた人間という理由で、解放後の作品は駄目だということで残りました。けれども韓国の人がそんなことをおとなしく守るはずがないですから、結局実質的には全面的な解禁となりました。
 その結果、韓国では自由に読めるようになったことで北のものに対する熱がすっかり冷めて、北の作品を読もうという人はほとんどいなくなるという皮肉な結果になりました。現在は、例えば 林和李泰俊など全集が出なくてはいけないような重要な作家のものでも全く売れないので、奉仕作業で何年かに1冊ずつ出すという形でしか本を出せなくなりました。北のほかの作家についてはもうほとんど興味を持たれませんから、結局解禁になる前に出たものしか残っていません。解禁されたあとでも売れているのは、鄭芝溶の詩集だけのようです。
 それにしてもこの解禁は画期的なことでした。それまで大学での研究に限定されていたものが一般の人々にも解禁されたので、例えば北の『労働新聞』も図書館で読めるわけです。また、韓国の人は旧ソ連圏や中国などあちらこちらで資料発掘をしていますので、複写を含めると、おそらく北朝鮮で見られないものまで韓国の図書館で見られるようになっているという気がします (資料37)

資料37
北で扱われる韓国の文学


 韓国では1980年代から北の文学を自分たちの文学として取り込むようになり、文学史や解説書そして作品集に、南北朝鮮および中国の朝鮮族の作品も同時に取り上げられるようになりました。
 北のほうはどうかと言うと、北の研究雑誌 『朝鮮語文』の1990年代の分を見ると、南の文学に関するものは民衆劇の分野に関する 「南朝鮮のマダン劇文学のいくつかの特徴について」程度です。より一般的な文学専門誌 『朝鮮文学』に掲載された1990年代の評論を見ると、近代文学では 韓龍雲の詩に関するもの、現代の文学では パク・ノヘの詩集に関して 「『労働の夜明け』と開け行く時代の指標、および「南朝鮮に流布している構造主義文学理論の反動性」という評論が見られます。
 そのほかに注目されるのは、韓国人の評論として、文益煥、金準泰、アン・ドヒョンの詩集に対する評と 金南柱の死に関するものの2編の載録があり、金南柱の詩 「大統領一人」も載録されています。
 韓国の作品を載録した刊行物としては、アンソロジー形式の雑誌 『統一文学』があり、海外の朝鮮人の作品を載せていますが、はたして国内で読まれているのか、または主として海外向けに作られたものかどうかはっきりしません。この雑誌に収録された詩人には、パク・ノヘ、金南柱、高銀、文益煥、ソ・ジョンファン、朴斗鎮、梁性祐、金薫、申庚林、作詞では キム・ミンギ、そして小説では 朴景利の 『土地』の連載の他、キム・ヨンヒョン 「月見草」、キム・インスク 「共に行く道」、朴泰洵 「紐」、キム・ハギ 「根を下ろす」、イム・チョルウ 「サピョン駅」、キム・ジス 「南漢山城」などです。全体としては、やや韓国での体制批判的なものに偏る傾向が強いと言えるようです。
 なお韓国文学のアンソロジー 『受難者の声』(文学芸術総合出版社、1996)には、ユン・ジョンモ 「吉凶」、キム・ハギ 「蜂の巣の人々」、ハン・ムンギョン 「旅立ち」、イ・ナミ 「無名鬼」、チョン・ドサン 「アメリカ贈呈」、キム・ヨンヒョン 「月見草」、ソン・チュニク 「杏の話」、イ・チョンジュン 「白いツツジ」、ウィ・ギチュル 「死の祭場」、キム・ムンス 「パゴダ公園今昔」の10短篇が収められています。


《後日談文学》の出現と女性作家の活躍


コン・ジヨン(1963〜 )
出典:コン・ジヨン 『さば』 ウンジン出版、1994
 韓国は、外の力を借りずに血を流さずに軍事独裁政権から文民政権へ移行したわけで、これは画期的なことだと思います。将来の歴史では誇って良いことではないかという気がするのですが、不思議なことに、韓国ではあれは失敗だったとか、あれは何も成果がなかったという言い方をする人が多いのです。そのことが文学で現われたのが《後日談文学》と言われているもので、これは一種の挫折、または後遺症を扱った文学ですが、この言葉の使い方は日本とは違っています。学生運動や労働運動・民主化運動のあとその目標を失ない、自分たちの過去というのは青春というのは何であったかということを描いていました。1990年代にかけて出たものに キム・ヨンヒョン(1955〜 )の短編集 『深い川は遠く流れる』(1990)や コン・ジヨン(1963〜 )の 『そして彼らの美しい始まり』(1991)、『サイの角の如く一人で行け』(1993)などがあります。

シン・ギョンスク(1963〜 )
出典:シン・ギョンスク 『オルガンのある場所』 文学と知性社、1993
 また、80年代から現在に至るまでの文学界の変化の中で大きなことと言えば、民主化運動以後、活躍している作家に女性が増えたということだと思います。80年代の終わりに出現した後日談文学にも女性作家がとても多いのです。これまで触れなかった作家では、短編集 『冬の偶話』(1990)、『オルガンのある場所』(1993)の シン・ギョンスク(1963〜 )はかなり実力があると思われます。
 韓国の人に聞くと、女性が活躍しているのは大したことではないと言います。今韓国がこれだけ近代化をして、社会でいろんな人材が必要であって、つまり男性を中心とした優秀な人間は全部そちらにいっている。残ったどこへも行きようのない人たちが文学作品を書いている。だから女性が多いんだという言い方を大学の先生がしますし、一般にもそう見ている人が多いわけです。もうひとつ韓国の人が言うところでは、暇のある女の人はみんな小説を読んでいて、その人たちがだんだん本を書き出したと。要するに暇を持て余しているのは女性が多いからだというわけです。しかし、読者に女性が多いということと書き手に女性が出てくるということは必ずしもつながらないわけです。つまり、書くためには動機がなければいけないわけですから、書き手に女性がいるということと、単に女性の読者が多いということとは違うと思います。
 そういった理由よりもむしろ、韓国では昔から文学というのがある思想を担うという使命観がありましたが、現在ではその使命観が失くなりつつあるのかもしれません。そうなれば、日本やヨーロッパと同じような文学の時代と重なるものが出てきたということで、別にそれは否定的なものとは限らないわけです。朴婉緒もそうですが、女性たちがだいぶ年輩になってから初めて小説を発表するようになるということを見ますと、文学のあり方というのが変わりつつあるということが言えると思います。さらに、女性にとって生きるということが、さまざまな問題を抱えた時代を迎えているのかもしれません。